1. 「大堰端暗渠」を歩く・藩政期から現代まで

    「二〇世紀ひみつ基地」通算エントリー1,000回突破記念号20century.blog2.fc2.com/blog-entry-1001.html ▼「大堰端暗渠」を歩く・藩政期から現代まで ▼古地図に見る藩政期の「大堰端」 「久保田城下絵図」寛保2(1742)年頃 秋田市中心部にあたる「久保田」の東端を南北に流れる「大堰」に沿った片側町を、俗に「大堰端」(おおぜきばた)という。 現在の明田地下道付近から南通築地→楢山を経て太平川に到る「大堰」の竣工は江...

  2. 達三少年のスケート遊び

    石川達三が秋田市楢山裏町時代を回想した随筆には、冬の暮らしに関する記述が多い。物心のつき始める三歳から七歳まで秋田市で暮らし、その後は雪の積もらない東京に出ているため、幼いころの雪国での生活はとくに印象深く心に刻まれたのではないだろうか。達三少年たちは、雪道に「氷の道」(スケートリンク)をつくって遊んでいる。 雪道を踏みかためて、私たちは毎日すべっていた。小学校の五年ぐらいになるとスケートをはき、...

  3. 楢山の裏町という小路

    楢山裏町旧楢山本新町、通称・楢山裏町、現在の地名は南通築地。楢山本町(通称・表町)と、その北側の楢山本新町(通称・裏町)は、藩政時代は徒士衆(かちしゅう・徒歩で従事する下級武士)の屋敷町であり、本町を表御徒行(おかち)町、本新町を裏御徒行(おかち)町とよんだ。それを略した表町・裏町という呼び方が、通称として後世まで残った。下級武士の町も、幕末には中堅クラスの武士が住むようにる。江畑家もそのひとつ。...

  4. 石川達三と冬の落とし穴

    ドシアナ(落とし穴)つくりは、子どもの遊びの定番だった。原っぱに数人が集まり、子どもがすっぽり入るくらいの深さに穴を掘り、そこに枝を渡し、その上に新聞紙をのせ、さらに土をかぶせ草を散らしてカモフラージュする。積雪期はカモフラージュもしやすく、つくった自分たちでさえ、その場所が分からなくなるほど。そしてターゲットとなる誰かを呼びだし、仕掛けた穴までうまく誘導して落とすのだが、ともすれば落とし穴をつく...