二〇世紀ひみつ基地

  1. 鰰の喰い飽き足りて猫の餌

    ハタハタで育った秋田の子どもたちハタハタが年間1万トンから2万トンも捕れた昭和30年代後半から40年代にかけて、季節ハタハタの時期になると連日、ハタハタの木箱を満載した浜直送のトラックが何台も、スピーカーから北島三郎や都はるみの演歌を流しながら秋田市内に行商にやって来た。最初は一箱数百円ほどの値も、捕れすぎると数十円という捨て値でさばかれるようになる。白子ハタハタで一箱30円という下値を記憶している。塩...

  2. 池永小路の闇にタヌキを見る

    昨日の夜8時頃、池永小路(秋田市中通5丁目)を散歩していると、側溝のあたりをなにやら小動物がうごめいている。猫かと思って声をかけるが反応もなく、よく見ると子犬のようでもある。逃げ込んだ駐車場の暗闇を凝視しつづけ目が慣れると、こんな街中にまさかとは思ったが、そいつは紛れもないタヌキの子どもであった。08.08.17 07:53:43 PM市の中心部でタヌキを見つけたのは、もう7年ほど前の夜中、寺町の寺の門前にちょこんと...

  3. 明治時代のねぶり流し・竿燈

    大正期と思われる竿燈風景場所は不明だが、提灯には保戸野鉄砲町の「お多福」の町紋がみえるようやく長い梅雨も明けて、今年も「竿燈」の季節になったが、その「竿燈」の現流である「ねぶり流し」の姿はどのようなものであったか。秋田市上肴町の米屋に明治二十八年に生まれ、幼少期を過ごした文化人・鷲尾よし子は、自身が主催する月刊誌「秋田」に、特有の情感あふるる文体で、明治期の「ねぶり流し」の情景を綴っている。夢のね...

  4. 街に電燈が灯った日

    秋田市に初めて電燈が灯ったのは、明治三十四年十一月、電線が引かれたのは当初、土崎湊新柳町(花柳界新地)、旧秋田市内の通町、茶町通り、大町通り、川反通りとその周辺で、点灯数はわずか七十灯であったという。千秋公園には米国マンハッタン社製アークランプが三本設置された。アークランプは千二百燭光(約1200ワット)という高輝度で、それは、あたかも北斗七星が落ちてきたかのようだ、と当時の新聞は伝えている。秋田の電...

  5. 春を告げる「だるまさん祭り」

    福一満星辻神社 だるま祭り四月十二日 宵宮  十三日 本宮両日とも朝七時から夜九時まで秋田市川反一丁目星辻神社は境内に天保一四年(1843)と刻まれた手洗石ある古い神社だが、藩政期は聖護院(清光院)という修験の堂宇で、本尊は虚空蔵菩薩であった。そのため、お年寄りはこの神社を「セイゴイさん」とか「セイコウさん」と呼ぶ。明治維新の神仏分離の際に、虚空蔵信仰と縁の深い北斗七星、明星信仰の神社に衣替えし、星辻...

  6. 秋田市上肴町・魚市場

    上肴町・魚市場 大正末頃通町と上肴町界隈は秋田市の商業の中心地であった。通町側から今の「仏壇の升谷」のあたりまで魚問屋が両側に並び、店の前面にはアーケードの様に、コミセ(ヒサシ)が設置され、日差しや雨雪を防いでいる。上肴町の米屋に明治二十八年に生まれ、幼少期を過ごした文化人・鷲尾よし子は、幼いころの記憶を書き残している。馬から降ろされた大籠(十貫も入る長方形)から、貝焼皿で五匹づゝ計られるブリコハ...