1. マジソンバッグの70年代

    マジソンスクエアガーデンバッグ、通称マジソンバッグ実物は濃紺70年代のヒット商品、マジソンバッグが発売されたのは、1968年(昭和四十三年)。当初は神戸、横浜・横須賀あたりで反響を呼び、特に女子高生がセカンドバッグとして使用したのがきっかけとなり、70年代はじめには全国の中高生の通学用セカントバッグや、スポーツ用として愛用され、発売から約十年におよぶロングヒットを記録。その背景には、60年代のアイビールック...

  2. 県民会館とセドリック

    ニッサン セドリック羽後日産モーター株式会社 広告昭和四十一年(1966)秋田県民会館をバックにした写真は、フロントグリルの形状から「ニッサン・セドリック・カスタム6」と思われる。イタリアのピニンファリーナがデザインした130系セドリックは、ハイヤーやパトカーでも使われた、お馴染の車体。色気のあるデザインだが当時のユーザーには不評だったらしい。フロントとリアには開閉式の三角窓が装備され、それを開けて走ると...

  3. 舛屋薬局・町家

    舛屋薬局秋田市土崎港中央三丁目(旧加賀町)木造二階建・塗屋造明治二年(1869)の建築と伝えられる、外壁を漆喰塗にした塗屋造、二階には虫籠(むしこ)窓を設ける。屋根は当初は瓦葺きだったが今はトタン葺。くすんだ色彩の、切妻・妻入の町家が建ち並ぶ通りにあって、漆喰の白壁がまぶしい平入りの店舗は、さぞかし湊っ子の眼を惹いたものだろう。店内に入ると、黒地に白の「大波小波」を描いた鏝(こて)絵の見事さに圧倒され...

  4. 紙鉄砲で遊ぶ

    紙鉄砲のつくりかた・クリックで拡大紙は新聞紙がベスト。遊びかた強く降り下ろすことにより、風圧で折り込んだ部分が開き、大きな音を出す。油断している友だちや兄弟の背後に、足を忍ばせ近づき、おもいっきり降り下ろす。「パン!」。その大きな音に、目を丸くして驚いている姿をみて歓声をあげ、相手によっては、その場から逃げ出したり、駆けっこのピストルの代わりにも使った紙鉄砲。こんな単純な遊びなのに、あんなに夢中な...

  5. 恥ずかしがり屋の看板

    秋田市旭南「ヒゲタ醤油」のホーロー看板が取り付けられたすぐあとに、右側の建物が建ったため、人の目にも触れず、日陰者のような存在になってしまった可愛そうな物件。「山に髭田」のロゴマークが、眉毛と眼のようにもみえて、まるで、恥ずかしがり屋さんが、物陰に隠れてこちらを窺っているかのようだ。涙目のようにもみえる。昭和の遺産ともいえるホーロー看板が街角から消えてゆく運命にあるなか、この看板だけは取り外される...

  6. 那波紙店・町家

    那波伊四郎商店 秋田市大町四丁目(旧・茶町梅之丁)木造一部二階建、切妻造茶町の通称「那波紙店」は、初代伊四郎が、那波三郎右衛門家から分家して、現在地に明治十一年(1878)創業。現在は紙・事務用機器を扱うが、創業当初は「升伊」を屋号とし、茶、砂糖などを販売していたという。当主は代々那波伊四郎を襲名。創業時の建物は、明治十九年の俵屋火事で焼失したが、すぐに土崎湊の船宿を買い取り現在地に移築したもので、立...

  7. ラジコン型ロボット?・広告

    1966年 少年サンデー広告これも前回の「ラジオが当る!!」と同様に、いったい何がメインの商品なのか、一見して分からない広告。前金500円で「切手」を注文するか、前金600円で万年筆を注文すると、「ラジコン型ロボット」がもらえるという、そのロボットの説明は次の通り。ラジコン型なのでコード類は不要で操縦器1つで陸上、水上でも前進後退左右回転、坂も上りスピードがかえられマグネット誘導方式なのでどのようにも動き2ケ...

  8. 那波祐生と感恩講

    NPO実証研究の第一人者、ジョンズ・ホプキンス大教授、レスター・サラモン博士は、米国の権威ある外交評論誌「フォーリン・アフェーズ」に掲載された論文、「福祉国家の衰退と非営利団体の台頭」のなかで、秋田感恩講のことをとりあげている。……日本においても慈善活動は仏教の時代までさかのぼることができるし、「報恩社」(正しい訳は感恩講)という近代的慈善組織がすでに1829年に設立されている。これは米国で慈善活動が始ま...

  9. 人徳の商家・那波家

    秋田市大町三丁目の那波商店は、清酒(銀鱗)、味噌(山蕗)、醤油の製造販売、呉服衣料品(升屋)の販売を手がける、秋田を代表する老舗のひとつ。当主は代々那波三郎右衛門を襲名する。那波呉服店・大正期 現在の交通公社付近秋田に来る前は京都室町の両替屋で、諸国の大名に資金を用立てるほどの財力だった。初代は佐竹氏の常陸藩時代から、京都の佐竹屋敷に御用商人として出入りする。五代目の時に火災に遭い、那波家ではほと...

  10. 看板のない店・町家

    川反に近い大町にある、古い町家を利用した、看板のない飲食店。看板のない店というのは気になる存在だ。大人の隠れ家的な魅力もある。しかし入るのには覚悟がいる。一度入ればなんてことはないのだろうが、もしかして一見さんはお断りだったりしたら…、などと躊躇してしまう。日が暮れて、玄関の赤いのれん越しに店内の明かりがほのかに灯り、黒く塗装された壁面とのコントラストを際立たせる。そのシンプルな演出が心憎い。看板...

  11. 東電前融雪道路・広小路

    昭和四十一年(1966)、東北電力の広告より「秋田県最初の電機融雪道路」このころの広小路の歩道は、歩行者数が多かったため、積雪期には踏み固められた雪が、テカテカのアイスバーン状態になることが多く、そのなかにあって東北電力前にできた融雪道路は、当時は画期的なもので、そこだけ春が来たかのような空間が物珍しく、立ち止まり一服する人も多かった。同じころ車道には、地下水を汲みあげて噴水状に散布する融雪装置が一時...

  12. 哀しきひなまつり

    『うれしいひなまつり』作詞:サトウハチロー  作曲:河村光陽この歌はメロディがマイナー調であることもあって、「うれしい・たのしい」という言葉とは裏腹に、えも言われぬ哀感の漂う童謡だ。サトウハチローがこの詩を書いたのは、昭和十年。そのころハチローは、最初の妻と離婚して、三人の子ども引き取っていた。まだ母親が恋しい年頃の子供たちのために、豪華な雛人形を買い与えると、娘たちはうれしそうに、一日中お雛さま...

  13. ひな祭り・八橋人形

    「桃の節句」はもともと春先の農作業を始めるころ、旧暦の三月三日の行事。今の時期、北国では桃はおろか、まだ雪が降り積もり季節がともなわない。このような行事だけは旧暦で祝いたいものだ。勝平得之「秋田風俗十態・雛うり」昭和十二年ひな祭りが近づくと、八橋人形の雛売りたちが、街角や店の軒下などを借りて店を出した。鮮やかな赤い布の上には、雛人形のほかに桃太郎や鳩笛など、男の子の玩具も並び、梅と桃の造花も添えら...

  14. 秋田百円ラーメン伝説

    その店にはメニューがなかった。だから一言挨拶を交わし、少し待てば一杯百円のラーメンが出てくる。しっかりとダシが効いたスープ、チャーシュー一枚、メンマに海苔がトッピングされ、百円とは信じられぬほどの味とボリューム。これでは売れば売るほど赤字になるのはあきらか。だから所在を聞かれてもなるべく教えたくはなかった。80年代の店内「薮松」が、静かに店を閉じたのは昨年の春ころだろうか。看板も暖簾もなかったので、...