1. アカと呼ばれた野良猫のこと

    千秋公園の弥高神社付近に数匹の野良猫が暮らしている。ほとんどが捨て猫、もしくはその子供たち。以前は八匹ほどいたが、今はもっと少ない。その中に毛色からアカと呼ばれた猫がいた。アカは野良猫にしてはやけに人懐っこく、かつては大切に育てられた飼い猫だったことを想像させたが、今年に入ってから公園からその姿を消してしまう。野良は病気に感染しやすく、過酷な環境にさらされることからその寿命は短い。また、人懐こい猫...

  2. 市電が走る街・大町

    県庁前通り・昭和二十五年秋田市大町二丁目交差点から東を望む左手に大正期に建てられた勧業銀行秋田支店、直進して二丁目橋を渡った突当りには県庁舎。当時の道幅は12.7mほど。勧銀前 宝くじ売り場野口時計店側右手の店舗は野口時計店。店舗脇の電柱に、「哀愁の港 やくざブルース」「旭座」の文字が見える映画看板。旭館は市内十人衆町(大町六丁目)にあった映画館で、のちに銀映座と改称、昭和四十年頃に閉館。車両番号「112...

  3. 足下の江戸・古川堀反町遺跡

    古川堀反通り広小路方向から北を望む左に秋田カトリック教会、その向こうが工事中の秋田警察署。右手の堀側にはかつて、貸ボートと金魚・熱帯魚の「秋田水族館」、「金鳥園」の熱帯魚部、水交会館などが並んでいたが、今は駐車場になっている土地も多い。佐竹氏の居城からも近いこの付近は、大物クラスの家臣が配置されていた武家屋敷で、昭和三十八年に警察署が移転するまでは、根本家の武家門が残り、武家屋敷の風情をわずかに残...

  4. 追悼・池田修三氏

    版画家の池田修三が昨年の暮れ逝去したという。検索してもおくやみの記事が見つからないのは密葬だったためだろうか。修三は大正十一年(1922)秋田県象潟町に生まれ、旧制本荘中学から東京高等師範学校に進学。昭和二十一年から由利高校教員として六年間勤務した後、秋田市の聖霊学園に三年間勤務、昭和三十年に上京し、木版画に専念する。少女や子供たちの情景を得意とした。この作品は美術教師として聖霊学園に勤務していた時代...

  5. 七夕と御盆

    日本古来の七夕(タナバタ)は、大陸から七夕(シチセキ)行事が渡来する以前からの民間信仰。東北の七夕行事である、ネブリナガシ(ネブタ、竿燈など)が終わると御盆が始まるが、七夕は、水で体を清め慎んで祖霊を迎える準備をする、ミソギの行事であったという。この日は秋田県内でも、七たび水浴びし身を清める習慣があった。竿燈祭りの期間中、竿燈のてっぺんに飾られて、ケガレや睡魔が付いた御幣を、最終日の翌日の早朝に川...

  6. 草市・馬口労町

    勝平得之「盆市」(部分)昭和二十一年八月十二日、近郊の農家が集り、お盆に使う花、野菜、果物、精霊棚の供え物などを売る草市(盆市)は、秋田市内では保戸野通町と馬口労町で古くから続いているが、往年の情緒を今に残す草市は、馬口労町だけになってしまった。馬口労町通り盆花(精霊花)盆の数日前に山に入り花を採ってくる行事は「盆花折り」などと呼ばれ、山にいる祖霊は盆花に乗って家に帰ってくるとの言い伝えもある。本...

  7. 竿燈妙技会2005・昼竿燈

    第五十九回、竿燈妙技会秋田市保戸野通町にて合同演技竿燈まつり期間中、八月四日から六日まで、通町を会場に開催される竿燈妙技会の面白さは、本番の夜竿燈を凌ぐものがあるのだが、秋田市内に住んでいても一度も目にしたことが無い人も多い。競技種目は、大若団体規定、大若自由演技、大若個人戦、囃子方、小若囃子方、小若団体規定。大若規定演技・北都銀行大若団体規定は、チーム五人で「流し」「平手」「額」「肩」「腰」の演...

  8. 戦前の竿燈風景

    広小路 昭和初期右手前の平屋店舗が、木内デパートの前身、木内商店。店の前で使用人らしき二人が見物中。その後ろがキャッスルホテルの場所にあった裁判所の煉瓦建築。竿燈の提灯には「蕗ラム子」の文字「蕗ラムネ会社」は明治三十六年(1903)、馬口労町に創業した県内初のラムネ工場。明治四十一年には社員とその身内によって竿燈が出された。これが広告竿燈の始まりという。白シャツに半栲衣、白手拭の装束が珍しい。広小路 ...

  9. 御幣渡しの式・ねぶり流し

    八月三日・八幡秋田神社仮拝殿ねぶり流し(竿燈)初日の早朝、干秋公園本丸、八幡秋田神社にて、神主のお祓いを受け祭りの安全を祈願し、各団体に竿燈のてっぺんに飾り付ける神社の霊符の付いた御幣と、二段重ねの紅白の餅が配布される。頂いた御幣と重ね餅は、各町内竿燈事務所に持ち帰り祭壇に供えた後、御幣は竿燈の先端に取り付けられ、夜の本番を迎える。竿燈に無くてはならない竹は、神聖な植物とされ古来から祭事に使われて...