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ぼくのえ日き じどう車のおすし
1二月二五日(土よう日) 晴れ夕がた 母さんといっしょに とおり町の せきや いったらじどう車のもようの ふとまきずしがあったので かってもらいました。まどがキュウリで ライトがニンジンです。ほかには 花のもようのもありました。みせの中には ひなまつりの おすしが かざられていました。--------------関連記事せきやの「たこあげくん」せきや・秋田市通町...
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我家の明かりは北光ランプ
小学校の最初の社会見学は、秋田市南通宮田、大堰端沿いの「北光ランプ」だった。「北光電球株式会社」というのが正式な社名だが、みんながそう呼んでいたのは、工場正面に大きく印されていた「北光ランプ」の文字を見慣れていたせいだと思う。昭和四十年ころ学校から歩いて一〇分ほどの「北光ランプ」の入口には、堰が流れ小さな橋が架かっていた。工場は子どもの目からすればとても広く、ガラス溶解炉の炎の赤さが強く記憶に刻ま...
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招き猫昨夜の客をニャンとした
昭和二十四年 広告戦後まもない時代の、川反「左の左」の小粋な広告。「左の左」と書いて「さのさ」と読む。川柳風のコピーが可愛く、かつ艶っぽくもある。「まねぎねこ」と秋田訛りなのも良い。うしろを向いた猫の尻尾は、歳を重ねた化け猫のように二股に割れている。さては老練な雌猫だな。招き猫、昨夜の客を・・・ほかにはこんなのも。昭和二十二年 広告これが初の広告と思われる。「左の左」と書いて「サノサ」と読ませるこ...
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キミは協働社タワーに昇ったか?
協働社ビルの屋上にそびえるタワー昭和四十三年(1968)広告より「いやぁー、180度パノラマの協働社タワーは見晴らしが良かったなぁ」と言いたいところだが、この時代、毎日のように広小路で遊んでいたのに、こんなものを見た記憶もなく、その存在を知る人もいない。浅利社長の計画は「地上80mの塔の最上部には戦死者を弔うために観音さまを安置し、完成したら秋田市の名物がひとつ増える」というものだった。80mといえば、本金タ...
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土曜の午後は「協働社」サテライトスタジオで
広小路が放課後の遊び場だった中高生のころ、半ドンの土曜の午後は、協働社へ行ってサテライトスタジオを見物するのが定番のコースだった。協働社ビルの二階への階段を上ってすぐ、天井にぶらさがるように設置された、ガラス張りのサテライトスタジオ、そこからは秋田放送のラジオ番組が生中継されていた。昭和四十二年(1967)広告秋田にただひとつの“音のショーウインドー”<秋田放送・協働社サテライトスタジオ>音楽・クイズ・...
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達三少年のスケート遊び
石川達三が秋田市楢山裏町時代を回想した随筆には、冬の暮らしに関する記述が多い。物心のつき始める三歳から七歳まで秋田市で暮らし、その後は雪の積もらない東京に出ているため、幼いころの雪国での生活はとくに印象深く心に刻まれたのではないだろうか。達三少年たちは、雪道に「氷の道」(スケートリンク)をつくって遊んでいる。 雪道を踏みかためて、私たちは毎日すべっていた。小学校の五年ぐらいになるとスケートをはき、...