1. タウトの観た秋田市・茶町菊ノ町・上肴町

    建築家・ブルーノ・タウトが昭和十年五月に秋田市を訪れ、版画家・勝平得之の案内で市内の建築物を見て回った際、タウトの助手を務めていた上野伊三郎が撮影した写真の一部が、タウトの著書『Houses and People of Japan』(日本の家屋と生活)に記録されている。Fig. 149 A Merchant House at Akita『Houses and People of Japan』(1937・初版) よりニューシティビルの裏にあたる茶町菊ノ丁から上肴町を望んでいる。手前の「片屋...

  2. 保戸野「あきこうまえ茶屋」昭和レトロ建築

    塗装のはがれた壁面にプラットホームを模した看板、年季の入った緑色のベンチ、退色した日除け、黄色い張り紙には「ニテコサイダーあります」。旭川に架かる新中島橋を渡って秋田工業高校へ向かう途中にある駄菓子と格安軽食の店「あきこうまえ茶屋」。もともと駄菓子屋だった店を継承して開店したのが昭和57年(1982)という。秋田工高の門前にあるため、学生のたまり場として愛された、OBにとっては郷愁とともに語られる忘れがた...

  3. 「ひまわり」がアゴラ広場のシンボルだった

    昭和59年(1984)4月、秋田駅前「金座街」跡地に「買物広場」(アゴラ広場)とバスターミナルが誕生。そのシンボル的な存在が、太陽光自動集光伝送装置「ひまわり」であった。広場の中央に設置された「ひまわり」は、球体に覆われた複数の特殊レンズで太陽光を集め、光ファイバーを通して地下商店街のフラワーショップに送る装置。植物のひまわりのように自動的に太陽を追尾するレンズが太陽光の有害要素をカットし、有用な可視光...

  4. 秋田駅前「金座街」晩期

    新聞広告 昭和55年(1980)2月 秋田駅前のアゴラ広場からバスターミナルにかけて存在した商店街「金座街」の全店舗が、イラストで紹介された全四段広告。 右側の囲みに以下の文章。 “心ふれあうストリート”  金座街。 現在工場中の南工区と別に金座街は具体化した駅前開発の元に、旧高裁跡地(現・市営バス駐車場)へ地下1階、地上7階の近代高層ビルを建設し、一大ショッピングセンターとなる予定です。その間は、従来の金...

  5. 覚醒剤「ヒロポン」の時代

    昭和十八年 新聞広告秋田魁新報に掲載された中枢神経刺激薬、いわゆる覚醒剤の広告である。今では考えられないことだが、当時の覚醒剤に対する認識は「効果抜群の栄養ドリンク」程度のもので、薬局に行けば簡単に購入することができた。広告の商品は大日本製薬から発売されていた「ヒロポン」錠剤、「倦怠感、憂鬱感を除去して爽快活溌となし、又眠気の防止あるいは除去に偉効があり、医界各方面に異常なる注目を喚起しております...

  6. 勝平得之「蛇柳夜景」広小路

    勝平得之『千秋公園八景・蛇柳夜景』昭和十年夜空に咲く花火を見上げる人々、穴門の堀の向こうに千秋公園の丘、そのてっぺんに三角の旗がなびいているのは、本丸に掲揚されていた気象予報の旗。昼は旗の色、夜間はサーチライトの色で天気を予報していた。広小路に面した堀端の大きな柳の木が表題の「蛇柳」。右手の古川堀端町に料理屋のような二階建ての建物。柳の木の向こうに小さく描かれた樹木は鷹匠町の「鷹の松」か。「蛇柳」...

  7. 県民会館の土手から西を望む・大正期

    「秋田県民会館」南側の土手に立ち西方を眺めている。時代は大正末から昭和初期頃だろう。今同じ場所から撮影するとこのような風景になる。07.11土手に植栽されたツツジが生長して視界をさえぎり、古川堀反通りが見えない。ツツジは「花いっぱい運動」の一環として昭和三十三年(1958)に植樹されたもの。ツツジが咲く初夏は色とりどりの花で彩られるが、それ以外の季節は繁茂する枝葉が景観を損ねる存在となる。年間を通してみる...

  8. 堀端から消えた龍神さま

    雄柳大龍王尊神社千秋公園・穴門の堀に面した古川堀反町通りに鎮座していた「雄柳大龍王尊神社」が、この二月に解体され更地になってしまった。08.02土地の賃貸契約の期限切れと、建物の老朽化で補修維持が困難となり解体を余儀なくされたゆえの張り紙が掲示されたのが、昨年(平成一九年)の春。その年の六月二日に最後のお祭りが催行され、講員および関係者が参列し別れを惜しんだ。同年六月六日、千秋公園本丸の「八幡秋田神社...