砂利船のある情景・秋田市旭川
秋田市旭川(大正期)
旭川に架かる橋の下に夫婦連れらしき砂利船が浮かぶ。その橋は保戸野新橋だろうか。
保戸野新橋
昭和初期の『秋田魁新報』より、旭川の砂利船を描写した随筆を。
早春点景
柳の青む川で
船頭夫婦が 楽しいお昼飯(F記者)
「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也…」と芭蕉は奥の細道の冒頭につぶやいている「舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす…」と
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雪汁(*1)がひたひた寄せてくる頃市内旭川の川下から掛け声面白く大きな川船が遡ってくる。潟の藻草を積んだ船(*2)である、水影がユタユタ船腹に揺らいで棹を突っ張る若者や面舵を操(と)る老人の顔が赭(あか)くかゞやく……セザンヌの絵のように。
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砂利船の夫婦は冬のうち“おつね”(*3)をしても雪がとけて川があく頃になれば日に三両づゝ二人 少なくとも五両(*4)はラクラク稼げる。ヨタ船が一艘であとは腕と肩が資本でいゝから呑ン気なものである。
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彼等は川口から新川あたりに住んでいるが水の具合を見計らって泉あたりまでも遡ってゆく。夕方柳の青む川べりに沿うて何艘も砂利船の夫婦がくだってゆくのを見る。
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暖かな日、舟の盛り砂に腰をおろした砂利あげの夫婦は睦ましげにワッパに詰めた白飯を頬張っているのはハタで見ると羨ましい。
昭和4(1929)年4月『秋田魁新報』より
(*1)雪汁(ゆきしる)
雪解け水。
(*2)潟の藻草を積んだ船
八郎潟の海藻類を積んで、雄物川経由で秋田市に到来。
(*3)おつね
越年(おつねん) 。
(*4)日に三両づゝ二人 少なくとも五両
ここでいう「両」とは「円」のこと。明治以降「円」を俗に「両」と称した。
ちなみに、昭和4年前後の大工の手間賃(日当)は3円ほど、小学校教員初任給45円ほど。
インテリ臭い売文業のF記者は「ラクラク稼げる。ヨタ船が一艘であとは腕と肩が資本でいゝから呑ン気なものである」と見下すが、砂利採りは体力を必要とするのはもちろんのこと、年中、水に浸かりっぱなし、春先の増水期などは腰まで冷たい水に浸からなければならない。一般の肉体労働者よりも高い日当も当然の結果であった。
旭川の砂利採り(昭和はじめ頃)
小さな三人は近所の子どもか。船の後方に水汲み用の階段が見える。
水量が比較的少ない川でも運行できるように、船底が平らな造りの砂利船の上には、砂状のものから砂利まで、大きさで選別された砂礫。
川底から鋤簾(じょれん)でかき集めた砂礫は、篩(ふる)いにかけて選り分けられる。力仕事で鍛え上げられた人夫の胸板が厚い。
絵葉書「秋田 旭川の清流」(大正末頃)
以前「川反に土手があったころ」に掲載した絵葉書に写る、旭川を下る砂利船。そのむこうに架かる白い橋が、県内初のコンクリート橋・二丁目橋(別名・県庁橋)。
2014.09 大町公園橋から二丁目橋を望む
上質な旭川の玉砂利は高値で取引され、昭和30年代半ば頃まで採取がつづけられた。