ちん餅・師走の風物詩
昭和34(1959)年師走 新聞広告
現在の大町三丁目に店舗があった、宝永2(1705)年創業の元祖秋田諸越本舗「杉山寿山堂」による「ちん餅」の広告。
「ちん餅」という言葉にピンとこない人も多いと思うが、「ちん」とは「賃金・工賃」の「賃」で、おもに正月用の餅を工賃を払って餅屋や米屋、菓子屋に搗いて貰うことをいう。
江戸時代に江戸から始まった言葉らしく、古くは臼・杵をかついで市中を回り、注文された家の前で、餅搗唄にあわせて餅を搗く職人も存在した。
『縁組連理鯰』より
天明1(1781)年刊『縁組連理鯰』から、「ちんもち」の看板が見える餅菓子屋の挿絵。暖簾に「突」の字、中央奥に米俵と米を水に浸す桶、左手にせいろで米を蒸す男、右手の棚には商品が並べられている。
我が家で「ちん餅」を注文していたのは、大福餅とかき氷が名物の楢山本町(通称・楢山表町)「斎藤もちや」。
暮れも押し詰まった29日頃、父が自転車で「ちん餅」(鏡餅・のし餅)を運んで来ると、正月を迎える師走気分が一気に高まった。
まだ柔らかさが残る搗き立ての「のし餅」は、新聞紙を敷いたちゃぶ台にのせられ、包丁にくっつかないように片栗粉がまぶされて、長方形に切りそろえられる。それをつまみ食いするのが毎年の楽しみだった。
昭和40年代後期、殺菌真空包装の「切り餅」が発売され、未開封で一年間という長期保存が可能になったが、加熱処理することにより、搗き立ての味がそこなわれる欠点があった。
昭和50年代に入って、無臭・無毒の脱酸素剤が発売され、食品の流通に革命を起す。パッケージ内の酸素を吸収し、食品のカビ発生や風味の低下を防ぐ脱酸素剤の登場によって、新鮮な状態の「切り餅」を長期保存することが可能になり、餅屋に注文する「ちん餅」の需要は徐々に低下してゆく。
鈴為餅屋 2015.12
南通みその町の「鈴為(すずため)餅屋」も、師走は「ちん餅」で忙しく、名物の「ミルク焼」はお休になる。