秋田駅前・金萬の「牛どんや」1980年代後半
▲吉野家 秋田駅ビル トピコ店 2016.12
平成28(2016)年1月17日、秋田駅ピル「トピコ」一階の「ミスタードーナツ」が経営不振を理由に閉店。その後、秋田県内でミスドを独占展開する「KAMADAスマイルコーポレーション」(旧・鎌田会館・マルシメ鎌田)が経営破綻していたことが判明する。
閉店した「ミスタードーナツ」秋田トピコショップ跡地に、平成29(2017)年11月22日「吉野家」秋田駅ビルトピコ店オープン。
秋田市に全国チェーンの牛丼店が初登場したのは平成9(1997)年11月のこと。横山金足線沿い、桜一丁目に11月4日「すき家」がオープンしたのにつづき、そこから北に数100メートル離れた広面字樋ノ沖に「吉野家」がオープン、互いに集客を競うが「吉野家」が先に撤退。「すき家 秋田東店」は現在(2017)も同じ場所で営業している。
▼秋田初の牛丼専門店は金萬の「牛どんや」?
全国チェーンの牛丼店が秋田に進出した平成9(1997)年からさかのぼること約10年前、秋田駅前に牛丼専門店「牛どんや」がオープンする。おそらくこれが秋田で初の牛丼専門店。
スタンド席のみの奥行きのある店内で、結構ボリュームのある並盛りが350円から400円ほどの価格は、当時の全国チェーン店とほぼ同じだった。
南側のパチンコ店「秋田レジャーセンター」および「秋田会館」から、北側の「サーティワンアイスクリーム」までが、金萬グループが経営していた店舗。その一角、「金萬」売店の隣に「牛どんや」があった。
▼「金萬」の誕生とレジャー産業への進出
湯沢市出身で「金萬」創業者の大内正見氏は、露店の闇市、バラックの引揚者住宅などが雑然と建ち並んでいた戦後間もない秋田駅前で雑貨や青物などを売る商売をはじめ、昭和23(1948)年完成の駅前商店街「銀座街」に入居し「正味食堂」を開く。その店名は店主の名前にちなんだものだろう。
「銀座街」は「たけや製パン」発祥の地だが「金萬」のルーツもこの地にあった。「正味食堂」廃業後、跡地に中華料理店「幸楽食堂」が入る。
ある日、東京に出かけた大内氏は、浅草のデパート「松屋」の食品売場で、その後の人生を左右するあるものに出会う。それは当時、東京で流行していた「都まんじゅう」の実演販売。
「都まんじゅう」の繁盛ぶりに感じ入り、早速その製造機械を購入した大内氏は、昭和28(1953)年、秋田駅前・金座街で「金座街のまんじゅう」略して「金万」(のちに金萬と改称)のネーミングで実演販売を開始。厳選した原料を使い「都まんじゅう」に負けない味を追求した。
できたてホヤホヤのおいしさと、ガラス越しに製造工程を見せる商法がヒットして、最盛期は1日2万個から3万個を販売。その利益をもとに食堂事業を拡大し、昭和30年代中頃にパチンコ店を開業してレジャー産業に進出。その後、ボウリング場、ゲームセンター、ブティックも経営する。80年代後半に入ると、サーティワンアイスクリーム、マクドナルドとフランチャイズ契約を結び出店。
「金萬」が「秋田名菓」を冠するようになったのは、創業者の大内正見氏(1921~1986)が亡くなってからのこと。
「金萬」の歴史とその製造機械などの詳細は下記リンク先に。
▲秋田駅前・金萬ストリート・1990年頃
地下道出入口の向こう、仲小路の角地に建つ三角屋根のレトロ建築は旧「日本通運」秋田駅前支店。改築して一階をパチンコ店「秋田レジャーセンター」二階に金萬事務所が入った。
▼秋田駅前北地区再開発計画の頓挫
平成28(2016)年5月に廃業した「金萬ボウリングセンター」を最後にレジャー産業から手を引き、2軒のパチンコ店・ゲームセンター・金萬売店・牛丼店・サーティワンが並んでいた区画は現在(2017)金萬駐車場になっている。
金萬駐車場と「エスポワール緑屋」などがある秋田駅前北地区は「フォンテ秋田」(旧・イトーヨーカドー)が建つ南地区に次いで、再開発共同ビルを平成13(2001)年度までに建設する計画であったが、折りからの不況も重なり断念。再開発のため更地にされた空間は有料駐車場となった。
更地になる前、金萬売店とサーティワンは「イトーヨーカドー秋田店」(現・フォンテ秋田)二階に移転。
▲秋田駅前・金萬駐車場 2016.12
▲金萬駐車場周辺俯瞰
緑色の多角形建築 「エスポワール緑屋」は旧「やまじんビル」。家電・家具を販売していた「緑屋」が買収後、金座街(現・アゴラ広場)側に増築、さらに変形度を増した。現在は居酒屋のほか、6階に「アニメイト秋田店」などが入居。「やまじんビル」と「緑屋」のことはまたいつか。
金萬「牛どんや」跡
もう18年も
秋田に帰っていないので、この牛どんやさんはわからなかったですね、食べてみたかったなぁ。