山王さんの秋祭り
日吉八幡神社秋季大祭(山王祭)・宵祭り

三つ巴の神紋が灯る宵宮の外町
江戸時代は山王社と呼ばれた八橋の日吉(ひえ)八幡神社は、元和元年(1615)初代藩主佐竹義宣が「統治の安定と外町町人の発展」を願い、近江の日枝山王と京都の石清水八幡を勧請して創建。外町(現在の大町、川反、旭南)の鎮守として、古くから「八橋の山王さん」と親しまれてきた。
十八日夕刻からの宵宮のメインは夕刻からの御差鉾渡御(おさしぼ・とぎょ)。
おごそかな神事はクライマックスを迎え、明かりを全て消した拝殿から、神主の「オォォォォ~」という警蹕(けいひつ・降神の音霊)の声が響き、闇の中からほの白く輝く御差鉾(おさしぼ)が登場する。これからお囃子の屋台車を先頭に、外町の全ての町内を祓い清めながら練り歩き、商売繁盛や家内安全などを祈願するのだ。

神社を出立する御差鉾
神の分霊(わけみたま)である御差鉾は、和紙をたばねた大きな御幣で、無病息災と火伏せに霊験あらたかと伝えられ、外町の古くからの家では、御差鉾から千切った御幣を頂き神棚に供えるのが慣例になっている。神社を出立したときには、たっぷりふくらんで重そうだった御差鉾も、外町の全ての町内を巡り終わったころには、すっかりやせ細っている。

馬口労町

下肴町
祭りといえば神社にお参りに行くのが普通だが、ここでは神様が御差鉾に乗って町内にわざわざ出向いて来てくれる。その理由は、鎮守としては距離があることと、八橋までの道が現在のように整備されておらず、簡単にお参りすることができなかったためらしい。

九月十八日
日吉八幡神社秋季大祭(山王祭)本祭 統前町・室町
神輿渡御、子供神輿、稚児行列

山王祭の日は六十騎もの神輿が一日中町を練り歩いたという文化年間(1804~1818)の記録が残っているように、かつて山王祭は久保田(秋田市)を代表する祭りだった。昭和初期には全県から見物人が集り、臨時列車が出るほどの賑わいだったという。
主だった町内では、高さ十メートルの曳山を出したが、やがて電線が空を被うようになり、曳山は身動きがとれなくなったため、巨大な置山と豪華な飾り人形になる。道路をまたいで設置した櫓舞台では、秋田音頭やコッカラ舞、手品、萬歳、浪曲など、中央から招いた芸人も交えて多彩な演芸がみられたという。

昭和三十年ころの山王祭
軍配の町紋がみえるので、本町六丁目が統前町だろうか。
横町の西端の大町との交差点に櫓があり、その上では神楽のようなものを演じ、周囲は見物する鈴なりの人で埋めつくされている。

横町から本町六丁目へ左折する神輿(上の写真と同じ場所)
現在の神輿の数は、子供神輿を合わせて三騎。
統前町の規模により、祭りの様相も毎年変化する。たとえば大店が集中する大町一、二丁目が当番になると、町内を歩行者天国にして出店を開き、竿燈を出竿したりするが、今年のように商店などスポンサーの少ない普通の町内では質素な祭りになってしまう。