井戸のある町内会館・秋田市下米町二丁目
▲下米町二丁目 2019.06
秋田市大町二丁目、旧町名でいうと秋田市下米町二丁目に、ちょっと風変わりな町内会館がある。
間口が狭く奥行きが深い敷地に建てられた、会館前の空き地のど真ん中に、通行をさえぎるように、コンクリート製で円筒形の物体が地上に突出している。
コンクリートに小さく開いた穴から中を覗くと、水がたまっているのが見える。どうやら封じられた井戸のようだ。
旧秋田市内の平地は飲料水に適した地下水が少なく、明治末に水道が引かれるまで、大町周辺では旭川の河川水を飲料水にしていた。この井戸はもっぱら洗濯などの生活用水に利用されたものだろう。旭川の飲料水については下記関連記事を参照のこと。
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それにしても、いちじるしく通行の邪魔になる物体で、例えば竿燈の打ち上げが終わった夜間など、これにつまずいた経験がある人も少なからず存在するのではないだろうか。
町内会館に掲げられた看板に刻まれた館名は「下米二安藤公民館」と、これもまた異質。
それでは、井戸跡と館名の謎を探るため、場所の記憶を紐解いてみよう。
当町内会館が開かれたのは、昭和48(1973)年末。神社を兼ねた近隣の町内会館と比較すると歴史が浅い。
館名の「下米二安藤公民館」に名が残るように、この地は元々、安藤家の敷地で、今に残されている封印された井戸は、同家の坪庭に存在したものであった。
その家に住んでいた安藤サダさんが、昭和48(1973)年春に81歳で逝去。
一人息子を戦争で亡くし、30年近く一人暮しだった安藤さんの葬儀に遠方から訪れた親戚が、長いあいだ故人を支え、世話になった町内に、土地・建物の寄贈を申し出る。
江戸中期から竿燈に参加している米町四町(上米町一丁目・上米町二丁目、下米町一丁目・下米町二丁目)のうち、神社や町内会館がないのは下米町二丁目だけ。
神社は町内会館(集会所)を兼ね、夏は町紋入りの竿燈提灯が飾られ、町内の竿燈会事務所となるが、神社も町内会館もない下米町二丁目の場合、主に町内会長宅を工面して集会所としていたため、土地の寄贈は渡りに船だった。
しかし、不動産の贈与となるとそう簡単には物事が進まない。秋田市の中心地で、170平方メートルの敷地となれば、それなりの高額な贈与税が発生する。
そこで考えられたのは、相続権者が一旦相続した土地を秋田市に寄贈した上で、市が町内会に形式的に貸与するというもの。市有地となると、土地に関わる税金は一切不要となる。
こうして身寄りの無い安藤さんの相続人を探す戸籍追跡調査が始まる。町内の有志が東奔西走、県内外に散らばる相続権者10人を見つけ出し、全員から町内へ寄贈する件について快諾を得た。
建設のための寄付金を募り、町内の職人たちが手弁当で参加して、昭和48(1973)年末、8畳3間 40人収容の町内会館が竣工。
相続権者たちが寄贈する条件のひとつに「安藤家の表示を永久に残すこと」とあったことから、館名を「下米二安藤公民館」と命名。
さて、気になるのは井戸のこと。
まず前提として、水神が宿るといわれる井戸を粗末にすると障りがあるとされ、井戸をを封じたり埋め戻すときは、 “水神上げ”という神事(お祓い)を執り行う慣例がある。
井戸を埋め戻さず、封じたまま残した理由は不明だが、この地に安藤家が存在したことを記憶し、後世に伝えるモニュメント(記念碑)として、あえて残したのではないだろうか。
「下米二安藤公民館」の入口に、教育委員会が設置した「旧下米町」の文化財標柱が建てられている。