ブギの女王・笠置シズ子・秋田東宝劇場に来る

▼秋田に来た笠置シズ子・戦中篇

今回は戦時中に秋田にやって来た歌手・笠置シズ子のお話し。

大東亜戦争中の来秋は、昭和17(1942)年と昭和20(1945)年の少なくとも2回。笠置が独立する以前、戦前の「大阪少女歌劇 (OSSK)」および「松竹楽劇団(SGD)」時代の来訪については定かではない。

ブギウギ

敗戦後「東京ブギウギ」「買物ブギー」などの大ヒットで “ブギの女王” と呼ばれた笠置シズ子をモデルにしたNHK朝ドラ「ブギウギ」。主役を演じる趣里(しゅり)の演技と歌唱が好評だ。

俳優の水谷豊・伊藤蘭(元・キャンディーズ)夫妻の一人娘・趣里(しゅり)が、主役の福来スズ子(モデル・笠置シズ子)を、笠置とは師弟関係にあり、ほぼすべての楽曲を手がけ、J-POPの礎を築いた作曲家・羽鳥善一(モデル・服部良一)を草彅剛が演じる。音楽担当は服部良一の孫・服部隆之

すでにドラマは戦後編に突入し、もうすぐ最終回を迎えるが、令和5(2023)年12月に放送された第10週で、新たに結成された彼女とその楽団が、公演がなかなか決まらないなか、秋田からの出演依頼が舞い込んで歓喜するシーンがあった。

ブギウギ

ブギウギd

笠置が所属していた「松竹楽劇団(SGD)」は徐々に経営が苦しくなり、昭和16(1941)年1月、時局に見切りをつけて解散。その後、服部良一のバックアップで「笠置シズ子とその楽団」を結成。外地を含む各地で公演や慰問を行う。

▼笠置シズ子とその楽団 オンステージ「秋田東宝映画劇場」昭和17年

朝ドラでは楽団を結成して間もなく秋田からの講演依頼が舞い込む、というストーリーだったが、実際に秋田を訪れたのは楽団結成から1年以上経過した、日米開戦後の昭和17(1942)年3月のことだった。

秋田東宝劇場新聞広告
▲昭和17(1942)年3月 新聞広告

映画と軽音楽の夕べ

春の音楽祭典、歌謡ショウ
コロムビアレコード、スイングの女王
笠置シズ子
スイングバンド9

国際劇場 邦楽座の舞台そのまゝ・・・秋田公演、ニュースタイルの音楽饗宴に、陶酔の一夜をすごし給え

笠置の先輩で同じコロンビアレコード所属の淡谷のり子が “ブルースの女王” と呼ばれたのに対し、当時の笠置シズ子のキャッチフレーズは “スイングの女王” 。150センチほどの小さな体に、天性のスイング感を宿した、たぐいまれな歌い手であった。

「笠置シズ子とその楽団」の秋田初公演が開かれた「秋田東宝映画劇場」は、秋田市亀ノ丁西土手町(現・秋田市南通亀の町)。現在(2024年)解体中の複合映画館ビル「プレイタウンビル」の一角に存在した。昭和20(1945)年の終戦間際、同館は建物疎開により解体されてしまう。

戦後の高度経済成長期、西土手町に映画館や飲食店が集中するようになると、南北に延びるストリートは有楽町と通称されるようになる。

「秋田東宝映画劇場」館主・村山多七郎氏は、秋田と東京に映画館を所有し、県内初のトルコ風呂・民謡酒場なども経営、のちに複合映画館ビル「プレイタウンビル」を建てた、秋田の映画王。以下リンク先に関連記事あり。

大正時代の後半から昭和初期にかけて、映画の合間にアトラクション(各種演芸)をやることが流行する。笠置シズ子が所属していた「松竹楽劇団(SGD)」の旗揚げ興行「スヰング・アルバム」もまた、外国映画とレビュー・ショーとの併演であった。

映画のアトラクションといえば、秋田市川反五丁目に存在した映画館「演芸座」での、美人ダンサーと人造人間(ロボット)によるレビュー・ショーのことを以前書いたので、下にリンクを貼っておく。

同時上映の東宝映画「青春の気流」は、戦後に監督として名を馳せる黒澤明の初脚本映画で、早世した伏水修の最後の監督作品。音楽を服部良一が担当している。

秋田東宝劇場新聞広告
▲昭和17(1942)年3月 新聞広告

上掲の新聞広告に「四月からアトラクションがやれなくなりました。之が最後を飾る東宝の贈物です」という、気になる一節がある。

話が複雑になるので大ざっぱに説明すると、戦時体制下に制定された映画法の改定により、映画館の営業時間が短縮されたことも関係して、昭和17(1942)年4月以降、映画とアトラクションの同時興行が困難になる。その一方、秋田市十人衆町の「旭館」のように、アトラクション(実演)専門劇場に転ずる映画館もあった。笠置シズ子も舞台に立った「旭館」の事例は記事後半を参照のこと。

▼敵性音楽排除・スイングしなくちゃ意味がない・広告に偽りあり

以下に掲載した「秋田東宝映画劇場」が配布したチラシに、プログラムと楽団メンパーの紹介がある。

秋田東宝劇場チラシ
▲秋田東宝チラシ

19日より 若人に贈る
    映画と軽音楽の夕べ

春の音楽饗宴!
 素晴らしきアトラクション

スイングの女王
笠置シズ子

彼女のスイングバンド一行九名

秋田東宝劇場チラシ
▲秋田東宝チラシ

SSKのナンバーワン歌手より出発して、今や彼女は自慢のスイングバンドを組織して東都軽音楽の人気王となりきった。
国際劇場邦楽座の舞台そのまゝ・・・秋田公演。ニュースタイルの音楽饗宴に、陶酔一夜を過ごし給え。

「秋田東宝映画劇場」での公演日程は、昭和17(1942)年3月19日からの4日間。映画と実演を交互に1日数回のステージをこなした。

別のチラシから演目と楽団メンバーを見てみよう。

秋田東宝劇場チラシ
▲秋田東宝チラシ

まずは演目。

・・・プログラム・・・
(1)演奏 行進曲 “旧友” スイング楽団
(2)唄 会津磐梯山 笠置シズ子
(3)演奏 シューベルト 未完成交響楽の内 スイング楽団
(4)唄 A 庭のプラットボーム B 浪曲から 笠置シズ子   
(5)演奏 歌劇 カルメン スイング楽団
(6)唄 タンゴのお話 笠置シズ子

日米開戦(昭和17(1942)年12月)以降のステージなので当然、敵国である米国の楽曲や米国風の楽曲は皆無とはいえ、まだ戦局に余裕があり、英語が敵性語として徹底的に排撃される以前のため、楽器名および “プログラム” “スイング” などの英語がまだ使われている。

しかしながら、 “スイング楽団” が演奏する曲や “スイングの女王” 笠置シズ子が唄う歌が、スイングしないものばかりという大きな矛盾に「スウィングしなくちゃ意味がない!」と、愚痴を吐きたくなる。

スイングしなけりゃ意味ないね

ジャズのスタンダード曲。作詞:アーヴィング・ミルズ、作曲:デューク・エリントン。原題《It Don't Mean A Thing》。1931年の作品。エリントン楽団の初の専属歌手であるアイヴィ・アンダーソンのボーカルでヒットし、デューク・エリントンの代表作となった。邦題は「スイングしなけりゃ意味がない」などとも。

出典 小学館デジタル大辞泉プラス

上掲の新聞広告やチラシに「国際劇場 邦楽座の舞台そのまゝ・・・秋田公演。ニュースタイルの音楽饗宴に、陶酔の一夜を過ごし給え」とあるが、この文面もまた実情とそぐわない。

「国際劇場」および「邦楽座」は笠置が独立する前に所属していた「松竹楽劇団(SGD)」の本拠地。SGDの時代はどんな曲でも気兼ねなく自由に唄えたが、日米開戦後の時局が米国起源の “ニュースタイルの音楽” を許さず、SGD時代の “舞台そのまゝ” という、うたい文句とはほど遠いステージとなっていた。

広告文を真に受けて来館したファンにしてみれば、なんとも残念な秋田初公演。ほんの数ヶ月来秋が早ければ、スイングする彼女のステージを堪能できただろうに。

得意とするジャズ調の曲が制限され、派手な付けまつげやダイナミックなパフォーマンスが、警察当局から “敵性” があるとしてにらまれていた、戦時中の笠置シズ子。

ヒットした持ち歌をを封印され、本領を発揮できない彼女とその楽団員たちにとって、歯がゆく鬱屈とした日々がつづいたが、笠置の自叙伝に「しかし慰問ではどんどん戦前のヒット曲を歌いました」とある。慰問場所によっては戦前のジャズ調の曲が唄えたようだ。

これはすべての慰問に当てはまることではなく、ケースバイケースであったことは言うまでもない。ひとくちに慰問とっいても皇軍慰問、傷病兵慰問、軍需工場慰問とさまざま。有料の興業に対する検閲とは異なり、主催団体の裁量によってプログラムを組むことができたのだろう。

慰問といえば、笠置シズ子と同じ服部良一門下で、同時代に活躍した歌手・淡谷のり子の自伝に、皇軍慰問に関した次のようなエピソードがしたためられている。

 ブルースが禁止されてから、また私は上海へ慰問にやられて、東京の兵隊さん達の前でうたった時、タンゴやシャンソンを五十曲ぐらいもうたったが、兵隊さん達の方から、どうしても禁止されている「別れのブルース」と「雨のブルース」をうたえといってきかない。

 これ程までにいわれるものを、よしっ、罰をうけたって、かまうもんかと決心してうたい出したら、監視についていた将校さん達が、わざと居眠りを始めたくらいにして、見て見ぬ振りをしたり、スッと消えたりしてしまった。

 兵隊さん達は、ポロポロ涙を流してきいてくれた。うたいながら私も泣けて来た。 終って廊下へ出ると、出て行ったはずの将校さん達が、やはり廊下できいていて泣いていた。

 いくら権力で圧迫しても、歌は生きていると、私はその時も、しみじみと感じた。

淡谷のり子『酒・うた・男 : わが放浪の記』(春陽堂書店, 1957) より引用

ちなみに、この有名なエピソードが、朝ドラ「ブギウギ」では、特攻隊の慰問に置き換えられていた。

次に楽曲の解説。

  • (1)演奏 行進曲 “旧友” スイング楽団

原題 Alte Kameraden。ドイツを代表する軍隊行進曲(1889年)。曲名は知らなくても、運動会やスポーツ番組のBGMなどで誰もが耳にしたことがある、日本人にとってはなじみ深い楽曲。下にYouTubeへのリンクを貼っておく。

  • (2)唄 会津磐梯山 笠置シズ子
  • (3)演奏 シューベルト 未完成交響楽の内 スイング楽団
  • (4)唄 A 庭のプラットボーム B 浪曲から 笠置シズ子

「庭のプラットボーム」は「夜のプラットホーム」の誤植。よほど原稿が達筆だったのか、それにしてもひどい誤植だ。

『夜のプラットホーム』は、奥野椰子夫作詞、服部良一作曲の歌謡曲。1947年(昭和22年)に二葉あき子が歌って大ヒットし、彼女の代表的なヒット曲の1つに挙げられる歌であるが、もともとは淡谷のり子が吹き込んだものであった。

発禁処分に
当初は1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷が吹き込んだが、出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞があるとして、戦時下の時代情勢にそぐわないと検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。‥‥後略‥‥

夜のプラットホーム - Wikipedia より引用

タンゴ曲「夜のプラットホーム」につづく「浪曲から」については、コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズによる「ジャズ浪曲」の可能性がある。「夜のプラットホーム」「ジャズ浪曲」の両曲とも服部良一の作曲で、笠置が「松竹楽劇団(SGD)」時代からレパートリーにしていた曲。敵性語・敵性楽曲のなかでもとくに排撃された “ジャズ” という表記を回避したのか。

  • (5)演奏 歌劇 カルメン スイング楽団
  • (6)唄 タンゴのお話 笠置シズ子

「タンゴのお話」(服部良一作曲・村雨まさを作詞) は戦後「タンゴ物語」と改題してリリース。作詞の村雨まさをは服部良一のペンネーム。“タンゴの起源は日本にある” と、曲中に丹後民謡「宮津節」を挿入する、コミカルな駄洒落タンゴ。

戦時中によく唄ったという南方歌謡「アイレ可愛や」はまだリリースされていない。

持ち歌のなかで数少ない軍歌に分類される「大空の弟」が演目に含まれても良さそうだが、この曲に関しては、唄うのがつらすぎるため、ステージで披露する機会は少なかったのかも知れない。

戦死した笠置の弟・八郎(朝ドラでは六郎)に捧げ、また、落胆する笠置を励ますために服部良一が作詞作曲した「大空の弟」 は、レコード化されておらず、楽譜も未発見だったため、まぼろしの楽曲と言われていた。平成31(2019)年に楽譜が発見され、同年、笠置シズ子の半生を舞台化した「『SIZUKO! QUEEN OF BOOGIE』~ハイヒールとつけまつげ~」で、主演する演歌歌手・神野美伽が唄って現代によみがえった。

下記リンク先のnoteに服部一郎のお孫さんによる同曲の解説がある。

大空の弟
『大空の弟』フルバージョン オンステージ | 朝ドラ |  NHK - YouTube

NHK公式チャンネルに上がっている上掲動画に「フルバージョン」とあるのは、ドラマ内で唄われたフルサイズという意味で原曲はもっと長尺とのこと。

公式動画ではカットされているが「大空の弟」を唄い終わって泣き崩れたあと、立ち上がって気を取り直すように唄う「ラッパと娘」。陰から陽へと転じるコントラストの効いた演出が印象深く、趣里の歌唱と演技が感動的だった。

次に楽団メンバー。

楽団連名

トランペット 清水秀雄
トランペット 奥野繁
サックス 熊田辰也
サックス 長谷川末吉
サックス 熊田光晴
ピアノ 林茂雄
ドラム 鳥山太郎
ベース 伊藤豊作
トロンボーン 森 亨

服部良一門下で、初代バンドリーダーであったトロンボーン奏者・中沢寿士が軍隊に召集されたあとなので、残念ながらその名はない。

来秋した楽団のなかで高名なメンバーはトロンボーンの森亨。

森 亨
モリ トオル

職業 トロンボーン奏者
生年月日 大正2年 8月27日
出生地 鹿児島県
経歴 昭和10年頃、一家をあげて満州に渡る。上海、青島、大連と歩いて腕をあげ、戦前派トロンボーン奏者としては第一人者であった。戦後もシックスポインツのリーダーとして活躍した。
没年月日 平成7年 11月7日 (1995年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)

▼笠置しづ子と新星楽団 オンステージ「秋田旭館」県内巡業・昭和20年

最後に昭和20(1945)年の来秋について。

秋田東宝劇場新聞広告
▲昭和20(1945)年3月 新聞広告

帝都名流 芸能大会(各地昼夜)

★歌謡曲界の女王!
笠置しづ子新星楽団

★漫談の第一人者!
大辻司郎

★新舞踏の名花
石井不二香

昭和20(1945)年3月6日から9日まで昼夜2回公演。大曲市「大誠劇場」秋田市「旭館」能代市「渟城館」湯沢市「湯沢劇場」と県内映画館を巡業。演目は不明。

「秋田東宝映画劇場」から徒歩7分ほど西に位置する、秋田市十人衆町(現・大町六丁目)の「旭館」は昭和初期、洋画を中心に上映する映画館だった。しかし、日米開戦後、ハリウッドを代表とする米英映画の配給が完全にストップ。国内映画会社は企業統合され、邦画の製作本数も激減したため「旭館」は各種演芸をやるアトラクション専門劇場に転向していた。

過去記事から「旭館」関連記事へのリンクを下に貼っておく。「旭館」の建物は改修を経て、戦後も館名と館主を変えて存続。最後は「銀映座」の館名で幕を閉じる。

 “スイングの女王” という敵性語(英語)まじりのキャッチフレーズは “歌謡曲界の女王” と書き替えられ、芸名を笠置しづ子と改名。

芸名の変遷をたどると「松竹楽劇部」のちの「大阪少女歌劇 (OSSK)」 の初舞台で「三笠静子」としてデビュー。昭和10(1935)年、崇仁親王が宮号「三笠宮」を賜ったため、松竹が畏れ多いとして「笠置シズ子」と改名。その後、一時的に「笠置しづ子」と改め、間もなく「笠置シズ子」に復帰。 昭和32(1957)年、歌手廃業・女優専念を発表し「笠置シヅ子」に再改名。メディアでは最後の芸名である「笠置シヅ子」と表記する場合が多いが、この記事では全盛期を通して使われた「笠置シズ子」で通した。

「笠置シズ子とその楽団」は、昭和19(1944)年に楽団を解散。そのため、この巡業では「笠置しづ子と新星楽団」となっている。ちなみに朝ドラで「福来スズ子とその楽団」が解散するのは戦後。

昭和20(1945)年の秋田巡業で笠置の伴奏を担当した「新星楽団」とは、青森県三戸郡三戸町のアマチュアバンド。戦時中に町民有志が慰問を目的として結成、東北・北海道を活動範囲に、戦中・戦後にかけて活躍。笠置のほかに松島詩子や菅原都々子など人気歌手の伴奏もつとめ、若い演奏家が次々と召集されて人手不足となる戦時下の芸能界において、重宝されたセミプロ的な楽団であった。

共演者について。

大辻司郎。活動弁士(無声映画の解説者)出身の漫談家。漫談芸の創始者といわれる。

石井不二香。秋田出身の舞踊家・石井漠門下のバレリーナ。 戦後「石井不二香舞踊研究所」「石井不二香バレエスタジオ」を主宰。

▼「松竹楽劇団(SGD)」時代のフィルム発見される

記事をほぼ書き終えたところで、うれしいニュースが飛びこんできた。昭和14(1939)年から昭和15(1940)年にかけての「松竹楽劇団(SGD)」時代の撮影と推定されるフィルムが発見されたという。

リンク先の動画で当時の代表作「ラッパと娘」をスインギーに唄う笠置の姿が断片的に映されている。

出演映画での歌唱シーンなど、戦後の映像は少なくはないが「松竹楽劇団(SGD)」時代のパフォーマンスを記録した映像は前代未聞。“スイングの女王” 全盛期を記録したフイルム全編の公開が待ち望まれる。