幻の仁別川の流れを辿る

川端たぬき

佐竹氏転封以前、仁別川(旧旭川)の流れは、神明山(千秋公園台地)の西裾をすれすれに流れていた。手形鉄橋付近を起点とし、通町橋から五丁目橋までは直進する現在の旭川の一部は、堀替えによる人工の運河ということになる。

久保田城築城と同時に着工し、約十六年の歳月を要したといわれる、初代藩主佐竹義宣による旭川堀替の大工事は、仁別川の流れを堀替えて西方に移して現在の河道とし、川を境に西側を町人の町(外町・トマチ)、東側を侍の町(内町・ウチマチ)とした。

堀替で出た大量の土砂で、運河の東側(土手長町)に土手を築き防禦とし、東側に残った古川を整備して、久保田城を取り囲む外堀とした。堀替でできた運河もまた、土手を備えた外堀であった。

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仁別川(旧旭川)想像図

左端の手形鉄橋付近から、川反五丁目橋(横町橋)までのピンクでマーキングしたラインが、かつての仁別川(旧旭川)のおおよその流れ。「中島」という地名は、古川と新川の間にはさまれた「中ノ島」が由来。

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久保田城(千秋公園)西側・明治元年

水色が仁別川の流れを改修して造られた思われる堀。

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穴門の堀・北端から南を望む

左に和洋高校、左手には古川堀反通り、正面に木内デパートとキャッスルホテルが並ぶ広小路。この堀が一ヶ所だけ今に残された仁別川の跡。

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千秋公園外堀・明治末 クリックで拡大
古き仁別川を利用して造られた外堀

左手の堀が上の画像の「穴門の堀」、左寄りの土橋のあたりから左手を向き撮影している。その土橋から右手の堀は戦前から戦後にかけて埋立てられた。

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上長町(古川町)・木内デパートの小路

仁別川の流れは広小路を横断して、木内デパートのあたりを南下していたため、古くは木内デパート西側から南に延びる通りに沿った町を古川町と呼んだ。

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中央通り側から中長町、下長町(古川町)を望む

周辺はかつては中級武士の町、明治以降は開業医が多い静かな住宅街だったが、今ではマンションとホテルが立ち並ぶ町になった。

穴門の堀から古川町を南下した仁別川は、「旧あきたくらぶ」の敷地を通って五丁目橋付近に至り、現在の旭川に流れていたと推定される。

藩政期、「旧あきたくらぶ」の場所には藩営の米蔵があり、蔵の北側をとりまく堀は旭川に通じていた。この堀を「殻堀(からほり)」と称し、米は仙北方面から雄物川を舟で運ばれ、旭川に入り、殻堀の米蔵に荷を下ろした。この「殻堀」も仁別川を利用して造られたものとされている。

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水路・明治元年

赤色が藩営の米蔵があった場所。その北側(左)が殻堀(仁別川の名残)。
水色でマーキングした南北に延びる細い水路は、河道の切替え後、古川の一部を排水溝として残したものらしい。

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「旧あきたくらぶ」日本庭園の池 明治期

旧ニューグランドホテルの方向から、川反方面(西側)を眺めている。
この大きな池こそが、藩営の米蔵の北側にあった殻堀の跡、つまり仁別川の名残だ。

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「旧あきたくらぶ」周辺地図 明治末期

大ざっぱな地図だが当時の池の大きさが想像できる。

この大きな池はニューグランドホテル建築の際に大幅に埋立てられ、わずかにその面影を残していたが、「あきたくらぶ」と「ニューグランドホイル」の倒産にともない、完全に消え、跡地はルートインジャパン経営のホテルと、温浴施設「華の湯」が建っている。

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「旧あきたくらぶ」仁別川・名残の池

倒産して数ヶ月後の撮影、荒れ果てた庭園は、かつて名園と謳われた面影もない。

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