我家の明かりは北光ランプ

昭和四十年ころ
学校から歩いて一〇分ほどの「北光ランプ」の入口には、堰が流れ小さな橋が架かっていた。工場は子どもの目からすればとても広く、ガラス溶解炉の炎の赤さが強く記憶に刻まれている。
「北光電球株式会社」は、昭和二十一年「東京芝浦電気株式会社(東芝)秋田工場」として発足。

昭和二十五年(1950)広告
「粗悪電球はタダで貰っても損です」というほど、ちまたに粗悪品があふれていた時代。「我國」「電氣」など旧字まじりの文面が時代を感じさせる。
電球の頭に印刷されていた「北光」マークは、外側の丸枠が「マツダランプ」(東芝製)と同じ。「北光」の文字を「マツダ」に変えると「マツダランプ」になる。秋田工場では「マツダ」ブランドの電球を作り、地元営業エリアで販売するものを「北光」ブランドとして販売していた。

昭和二十六年(1951)広告
昭和二十六年、GHQによる過度経済力集中排除法によって、東芝から分離独立。
東北電力株式会社および、地元の資本参加を得て「北光電球株式会社」を設立、資本金は五百万円。

昭和四十三年(1968)広告
県民にはなじみ深い「北光」ブランドのランプも、昭和四十七年、製造をやめてしまう。
昭和四十七年(1972)一般照明用電球の製造中止。
昭和四十九年(1974)株式会社東芝の関連会社となり社名を「北光電子株式会社」に変更。
昭和五十七年(1982)本社工場を天王へ移転。
昭和五十九年(1984)株式会社トーキン(現在のNECトーキン株式会社)の関連会社となる。
「北光ランプ」では、電化製品や自動車の部品に使うフェライトマグネットも製造していたため、敷地内にはリング状のものなど、さまざまな形状のマグネットが転がっていた。
小学校のころ、工場に忍び込んで、そのマグネットを集めるのがブームになった時期があった。これは集めるというよりは盗むというほうが正確だが、誰でも入れる建物の周囲にまで落ちていたので、拾い集める感覚であり、また工員から直接貰うこともあったのは、セキュリティが万全な現代では考えられないこと。同級生の兄が工場深く侵入し、顔面に大きな火傷を負うという事件もあった。
「北光ランプ」の隣りは市営宮田グランド。学童野球などの会場としても使われ、行事の無い日は自由に遊ぶことができたグランドでは、夏には大きな盆踊り大会が二日にわたって開催され賑わいをみせていた。
南北に配水用の堰が伸びていた大堰端も、今は暗渠になり、「北光ランプ」があった場所には、南中学校が建ち、宮田グランドはそのグランドとなっている。
小学校の社会見学のとき、おみやげに貰ったのは、北光マークの電球だったか、それともマグネットセットだったろうか。