フラフープでふぅらふら
昭和三十年代、世界的な大ブームを巻き起こしたフラフープ。その名は、輪のなかに体を入れ、フラダンスのように腰をグラインドさせることからきている。
フラフープの起源はオーストラリア原住民が遊んでいた木製の輪だという。昭和三十三年(1958)、それにヒントを得たアメリカのおもちゃ会社が、硬質プラスチックのチューブを使い製品化したところ、発売四ヶ月で二千五百万本を売上げる大ヒット。
欧米を席巻したフラフープは、その年の秋には日本上陸を果たす。
十月十七日、フラフープ試演会が帝国ホテルで開かれ、翌十八日、都内各デパートから一斉発売。
積水化学の硬質ポリエチレン管を、アメリカの製造元が加工し、貿易会社が総販売代理店となって売りだしたもので、90cmサイズ・一本二百七十円、子ども用は二百円。ラーメン一杯四十円(都内)の時代、決して安い買い物ではなかったが、日本でも爆発的なブームとなり、デパートの前には、早朝からフラフープを求める長い行列ができた。

西銀座デパートでのフラフープコンテスト
発売当初の日産は二万数千本で、生産が需要に追いつかない。製品が手に入らない小売店では、ポリエチレホースをつないで輪にしたり、水道管に使う塩化ビニールの管を利用して売ったという。
やがて、おそらくは大概が不正規製品と思われるが、国内メーカーでも生産を開始。硬質ポリエチレンのチューブを輪にして色を塗るだけ、原料費九十円、小売り二百七十円前後だから笑いが止まらない。メーカーには現金を持った問屋が日参し、出来た尻から運びだす。

フラフープが秋田市に入ってきたのが十一月八日ころ、数日前からから予約しないと買えず、デパートには一日百件におよぶ問い合わせ電話が鳴り、市内だけで一日二、三千本は売れたという。職場単位でのまとめ買いも多く、昼休みにはフラフープを回すサラリーマンやOLの姿がみられた。

なんと秋田市茨島にも製造工場があった
老若男女がフラフープに興じて腰をゆらし、ストリッパーはステージ上でフラフープを披露。はてには歌舞伎役者がフラフープを回しながら花道を退場し、文楽人形にミニチュアのフラフープを回させたりと、まさに国民的なフィーバー状態。
そんな中、都内でフラフープに熱中していた十五歳の少年が、突然胃の激痛を訴えて病院に運ばれ、緊急手術。少年はもともと胃潰瘍を患っており、フラフープで遊んでいるうちに、腹圧で患部(胃)が破れてしまったという。
その後も同様な健康被害があいつぎ、秋田市でも、十二月一日、上米町のM君(七歳)が自宅付近でフラフープ遊びをしているうちに急に苦しみだし、病院に運ばれ一時間後に死亡。
診察した医師によれば、「死因は心臓マヒだが、顔にむくみがあり、腹部が張っていたので腎臓も悪かったと思う。フラフープと直接結びつけることはできないが、過労から隠れていた病気が出てくることは十分考えられる」とのこと。
さらにはフラフープに夢中になっているうちに、車にはねられる事故、フラフープの継ぎ目がはずれて眼を突く事故などがかさなり、警察庁保安局は、路上のフラフープを禁止したいとの勧告、各教育委員会では学校に警告を出し指導に乗りだした。ちなみに秋田県教育委員会でも、十一月下旬「学校への持ち込み禁止」令をだしている。
このような事故や健康被害はフラフープの普及率の高さを物語るものであり、フラフープそのものには罪はないのだが、「フラフープをやり過ぎると腸捻転になる」という根も葉もないデマも流され、全国を席巻したフラフープブームは急速に沈静化し、メーカーと問屋には在庫の山が残されることになった。
単純な遊びのためにあきられるのが早かったのも原因だが、東京方面では、約五週間、秋田では約四週間という異例の短さのフラフープブームだった。短く熱狂的なブームのあとの急速な沈静化というパターンは海外においても変わらない。

フラフープに穴を開け水を通して噴水にする、在庫の山をかかえたメーカーはこんな商品を売り出した。自宅で死蔵されているフラフープも別売りのフープチーズを買って加工すれば、たちまちフープシャワーに。こんなもん売れるわけがない。
ブーム最盛期のはっきりとした記憶は無いのだが、家には数本のフラフープがあって、たまに姉たちが遊んでいた。児童公園のかたすみの花壇には、切り離されてカラフルなフラフープが、柵として再利用されて余生を送っていたのを思いだす。
フラフープの起源はオーストラリア原住民が遊んでいた木製の輪だという。昭和三十三年(1958)、それにヒントを得たアメリカのおもちゃ会社が、硬質プラスチックのチューブを使い製品化したところ、発売四ヶ月で二千五百万本を売上げる大ヒット。
欧米を席巻したフラフープは、その年の秋には日本上陸を果たす。
十月十七日、フラフープ試演会が帝国ホテルで開かれ、翌十八日、都内各デパートから一斉発売。
積水化学の硬質ポリエチレン管を、アメリカの製造元が加工し、貿易会社が総販売代理店となって売りだしたもので、90cmサイズ・一本二百七十円、子ども用は二百円。ラーメン一杯四十円(都内)の時代、決して安い買い物ではなかったが、日本でも爆発的なブームとなり、デパートの前には、早朝からフラフープを求める長い行列ができた。

西銀座デパートでのフラフープコンテスト
発売当初の日産は二万数千本で、生産が需要に追いつかない。製品が手に入らない小売店では、ポリエチレホースをつないで輪にしたり、水道管に使う塩化ビニールの管を利用して売ったという。
やがて、おそらくは大概が不正規製品と思われるが、国内メーカーでも生産を開始。硬質ポリエチレンのチューブを輪にして色を塗るだけ、原料費九十円、小売り二百七十円前後だから笑いが止まらない。メーカーには現金を持った問屋が日参し、出来た尻から運びだす。

フラフープが秋田市に入ってきたのが十一月八日ころ、数日前からから予約しないと買えず、デパートには一日百件におよぶ問い合わせ電話が鳴り、市内だけで一日二、三千本は売れたという。職場単位でのまとめ買いも多く、昼休みにはフラフープを回すサラリーマンやOLの姿がみられた。

なんと秋田市茨島にも製造工場があった
老若男女がフラフープに興じて腰をゆらし、ストリッパーはステージ上でフラフープを披露。はてには歌舞伎役者がフラフープを回しながら花道を退場し、文楽人形にミニチュアのフラフープを回させたりと、まさに国民的なフィーバー状態。
そんな中、都内でフラフープに熱中していた十五歳の少年が、突然胃の激痛を訴えて病院に運ばれ、緊急手術。少年はもともと胃潰瘍を患っており、フラフープで遊んでいるうちに、腹圧で患部(胃)が破れてしまったという。
その後も同様な健康被害があいつぎ、秋田市でも、十二月一日、上米町のM君(七歳)が自宅付近でフラフープ遊びをしているうちに急に苦しみだし、病院に運ばれ一時間後に死亡。
診察した医師によれば、「死因は心臓マヒだが、顔にむくみがあり、腹部が張っていたので腎臓も悪かったと思う。フラフープと直接結びつけることはできないが、過労から隠れていた病気が出てくることは十分考えられる」とのこと。
さらにはフラフープに夢中になっているうちに、車にはねられる事故、フラフープの継ぎ目がはずれて眼を突く事故などがかさなり、警察庁保安局は、路上のフラフープを禁止したいとの勧告、各教育委員会では学校に警告を出し指導に乗りだした。ちなみに秋田県教育委員会でも、十一月下旬「学校への持ち込み禁止」令をだしている。
このような事故や健康被害はフラフープの普及率の高さを物語るものであり、フラフープそのものには罪はないのだが、「フラフープをやり過ぎると腸捻転になる」という根も葉もないデマも流され、全国を席巻したフラフープブームは急速に沈静化し、メーカーと問屋には在庫の山が残されることになった。
単純な遊びのためにあきられるのが早かったのも原因だが、東京方面では、約五週間、秋田では約四週間という異例の短さのフラフープブームだった。短く熱狂的なブームのあとの急速な沈静化というパターンは海外においても変わらない。

フラフープに穴を開け水を通して噴水にする、在庫の山をかかえたメーカーはこんな商品を売り出した。自宅で死蔵されているフラフープも別売りのフープチーズを買って加工すれば、たちまちフープシャワーに。こんなもん売れるわけがない。
ブーム最盛期のはっきりとした記憶は無いのだが、家には数本のフラフープがあって、たまに姉たちが遊んでいた。児童公園のかたすみの花壇には、切り離されてカラフルなフラフープが、柵として再利用されて余生を送っていたのを思いだす。