大正期の中土橋・千秋公園入口

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千秋公園入口・大正初期の絵葉書

平野美術館の構内にある土手が、この当時は大きく突き出して道をふさいでいる。土手の裏には秋田の武道館だった武徳館(今で言えばさしずめ市立体育館)、その後ろには明徳小学校。左手の現・県民会館の高台には大正七年に惜しくも焼失したルネッサンス様式の県公会堂が望め、撮影年代の判定材料となっている。

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秋田千秋公園の桜 秋田三色堂発行・おなじく大正初期

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明治元年発行・秋田城郭市内全図より

黒い太線が土手を表す。堀に架かる土橋を渡ると土手がさえぎり、手前の土手(今も県民会館の地に残る)と二重構造になっている。写真は手前の土手から撮影された。美術館の入口辺りまで堀が張り出し、ここが少し埋め立てられたことが分かる。市立図書館(旧・明徳小学校)付近にあった内堀は大手門通り(脳研側)まで連なり、下中城は水に囲まれた浮島のようだ。この内堀が埋め立てられたのは明徳小学校が建て直された昭和三十二年のこと。

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中土橋界隈・再現模型

この再現模型のように、中土橋をわたるとまず「一の門」にぶつかる。「一の門」をくぐり、左に曲がると「二の門」に相当する土手にはさまれた「楼門」(中央の白い建物)が建つ。二つの門を抜けると、左手には渋江家(現・県民会館の高台)、右手に梅津家といった家老クラスの屋敷の長屋門が連なり、内堀にかかる橋を渡り、大阪の石段をのぼると、松下門の番所で取り調べを受け、ようやく二の丸広場に至った。ちなみに久保田城の正門は中土橋ではなく、東側の大手門。

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現在の下中城周辺地図、緑色が残存している土手

大正十四年、昭和天皇が摂政殿下として御来園時に、迂回した道は車両の通行に不便とのことで、例の土手は取り去られ、今のようなまっすぐな道路となったという。

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現在の中土橋通り

左に県民会館入口、右端に平野美術館敷地に残った土手の一部がわずかに見える。