明治時代のねぶり流し・竿燈

川端たぬき


大正期と思われる竿燈風景
場所は不明だが、提灯には保戸野鉄砲町の「お多福」の町紋がみえる

ようやく長い梅雨も明けて、今年も「竿燈」の季節になったが、その「竿燈」の現流である「ねぶり流し」の姿はどのようなものであったか。

秋田市上肴町の米屋に明治二十八年に生まれ、幼少期を過ごした文化人・鷲尾よし子は、自身が主催する月刊誌「秋田」に、特有の情感あふるる文体で、明治期の「ねぶり流し」の情景を綴っている。

夢のねぶり流し 鷲尾よし子

 そろそろお盆が近づくと七夕が待ち遠しかった。今は、あまり流行って見せもの的になってしまい、何かあると、ソレ竿燈だと持ち出されるが、昔はねぶり流しと云って七夕のその夜、たった一ト夜の織姫と牽牛のたまゆらの「逢ひ」に灯を奉り、はかない逢瀬の哀れさを悲しんで二つの魂よ、燃えて輝け、空にも届け、とばかりの人情の炎であった。
 電燈もまだなく電信柱のなかった、上肴町から茶町三丁(菊之丁、梅之丁、扇之丁)から馬喰労町まで続き、一せいに火が入って、思う存分妙技を振るった。あのねぶり流しの華麗さを、昭和の竿灯に比べていう事はムリとも思うが‥‥。
 その夜大若は、街々の定紋付の提灯と同じ定紋付の紺の法被に紺の股引、白足袋惜しげなく、一呼吸、妙技が始まった。
 この一人の大若を真中に取り巻いて、薄化粧の中若、コッテリとお白粉をぬりたくった小若が一団となって、佐竹定紋五本骨の月印を大きく振って、あおぎ乍らの声援である。
 オイタサッサ オイタサ
 ネコツイタ オイタサ
笛太鼓がリズムをととのえて鳴り響くと、小若達は水色の手甲に鈴をつけた可憐な手に、小扇をふって
 ドコシヤァ ドコシャ
 ドウドウ ドコシャ
と相和す。鉦太鼓はリズムを高調、演者は継ぎ竹三本も継ぎ足して空にも届けとばかり、太竹の芯が身体と共にのけぞる程の弓なりに、声を呑んだ瞬間こそ、彦星織姫の二つの魂が燃えて消えゆく狂乱の最高潮であろう。
 ねぶり流し百本の一本が、響きをあげて倒れると、将棋倒しに皆燃え上って空も火の海となる。
 そして昔のねぶり流しは、又、来年ということにして終了したものだった。

月刊「秋田」昭和四十二年七・八月号より

この当時、夜竿燈が演じられた「上肴町から馬喰労町」の距離は、現在の会場である竿燈大通り(山王大通り)でいえば、二丁目橋から秋田市役所を通り越した十字路のあたりまでに相当し、道幅が狭いとはいえ、かなりの長さである。

今は提灯の下には空気孔があって、竿燈が倒れるとロウソクが消え、提灯に火が移らないような工夫がされているが、当時は空気孔はなく、転倒することで簡単に燃えたのかもしれない。

自動車も走らないから交通規制の心配はなく、観客と演者との境界線もなく、竿燈が将棋倒しで燃えあがるまで続けられた一夜限りの「ねぶり流し」の風情ある光景。街灯もビルの明かりもない真暗闇に浮かぶ竿燈は、どれほどの美しさであったことか‥‥‥。

それは、たった一晩の行事だから、身も心も燃え(萌え)狂い、竿燈さえも燃えあがるのだが、時代を下るにしたがい、二日、三日と期間が延長され、今では四日間の「観光イベント」と化してしまった。

一体誰のための行事なのか。二日までは良いとして、四日もダラダラとやる必要などどこにもない。あるとすればそれは大人のいやらしい事情があるだけである。

などという理屈をこねてみても、祭りキチガイである自分は、竿燈の「流し」のお囃子が聞こえてくると、じっとしてはいられなくなるんだ。

ついでに、夜竿燈の鑑賞ポイントについて。竿燈大通りの両端は極端に混みあうので、中ほどに行ったほうがゆったりと見られる。寺町界隈はビルもないので、夜空に提灯の明かりが映えて見た目もいい。移動するときは混雑した竿燈大通りではなく、大町二丁目寄りの裏道を通ると楽。

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Comments 1

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竹富士一杯
竿燈のそれ・・・

賑わいと経済効果と競い合いとその他もろもろで竿燈は今に至っています。大正時代の竿燈を経験したかった私は想うのです。竿燈と地域の方々との融合なくして何の祭りぞ。今の竿燈をを否定するのではなく、失くしてしまいそうな大切なものをしっかりと身に付け、賑わいと経済効果と競い合いごときで見失わないようにしたいものです。しかし驚きです。当時の文化人の目にもそんな風に映っていたとは。洞察力と含蓄の深さには感服いたします、と同時に同じ想いをよせる方々が時代を超えて存在したことに涙が出ます。今一度この大切なものにこだわってみようと思うのでした。竿燈のご先祖さまがた、ありがとう。