歩兵第十七連隊・秋田駅前

歩兵第十七連隊衛門・広小路
仙台の歩兵第十七連隊が秋田市に移されたのは明治三十一年のこと。海路、土崎に上陸した先発の第一大隊一千人は、行進ラッパに合わせて靴音高く市中を行進し、通行する町内は、日の丸国旗に紅白の幕を張り入営を祝った。
そのときの町の様子が、通町の招福稲荷神社に奉納された絵馬に描かれている。

奉納絵馬「連隊入営上通町歓迎図」
秋田市保戸野通町・招福稲荷神社

連隊の敷地は約十四万平方メートル、現在の地図と重ねてみれば、その広さを実感できる。

モノクロ部分が旧連隊のおおよその敷地
終戦後の一時期は米軍に接収され、そのあと、久保田中学校と秋田高校が建物および敷地を校舎とグランドとして使用、その後、都市計画による区画整理が進み、昭和三十九年ころには、市場、電話局、商店などが建ちならぶ駅前中心街に変貌した。
それでも旧連隊の面影は、敷地を取り囲む石垣の残骸など、探せば随所に残されていた。アトリオンの裏にあったポプラ並木もそのひとつ。
六月頃になると、白い雪のような綿毛(種子)が舞うポプラ並木が、アトリオンの建設のため伐採されることになったその年、異常な量の綿毛が舞い、まるでポプラたちが最後を覚悟しているかのようだと話題になった。

旧連隊の中心地、中通四丁目、NTT秋田支局裏手に歩兵十七第連隊跡の碑が建てら、その向いの児童公園敷地には平田篤胤誕生地の碑がある。

現在の衛門付近