「付木小路」に響く音(ね)は‥‥
秋田市・歴史の小路(四)

付木小路・秋田市大町六丁目
かつて映画館「銀映座」があった十人衆町から、本町六丁目に抜ける小路を「付木小路」という。小路を抜けた左手は樹木の茂る児童公園(旧感恩講)、右手に新政酒造の酒蔵がある。
昭和初期までこの小路に「付木屋」があったことから、「付木小路」と呼ばれたが、今ではその名を知る人も少ない。
「付木・つけぎ」とは、杉や檜(ひのき)の薄く削られた木片の先端に硫黄を塗ったもの。火打石と火打金で切りだした火花を、火口(ほくち)に移し火種とし、これに「付木」の硫黄の部分を近づけると青紫色の炎をあげて燃えあがる。この炎をさらに薪に移して竃の火をおこし、またロウソクや行灯(あんどん)に点灯するために用いた。

付木
束にして売られた「付木」。経年変化により硫黄は変色し剥離もめだつ。
使うときは木目に沿って1~2cm幅に割って火を付ける。
「付木」が発明されるまで、小さく低温な火種から竃の火をおこすことは、頭から灰をかぶりながら、火吹き竹で「ふうふう」と空気を送る、主婦にとっては難儀な仕事であったが、「付木」の登場により容易に大きな炎を得ることができるようになる。
「付木」の記録がある最も古い文献とされる『源平盛衰記』(十三世紀頃)の中の「円満院大輔登山の事」に、「付木」は「付茸硫黄・つけたけいわう」の名で登場する。「つけたけ」というのは、その初期において材料に竹が多く用いられたためらしい。
時代は下って、江戸および太平洋側では「硫黄付木」を略した「付木」、京阪地方においては「硫黄・いわう」、九州から奥羽地方までの日本海側ではおもに「つけだけ」と呼ばれていた。
「硫黄・いわう」は「祝う」に通じ縁起がよいことから、隣近所からのもらい物の返礼として「付木」が使われた地方では、マッチの時代になってもその風習がのこり、頂いた重箱などの容器にマッチを入れ、「付木のかわりに」と言ってお返しにするのだという。
「付木」をつくる職人は「付木突き」「付木師」と呼ばれた。

付木師『今様職人尽百人一首』(享保)より
切り揃えた角材を長い鉋で削り(突き)、火鉢で温めて硫黄を塗る工程が描かれ、会話として「皆精を出しましょう。明日は休みでござるぞ」「おまつ、そこのあいろうをくりゃ」「此硫黄はよい花じゃの」と記されている。
添えられた歌は「鳴かせつつ つけ木屋 猿の真似をつく 硫黄付けつつ 藁束ねおく」。
「猿の真似」とは、付木を鉋で削るときに鳴る音が、猿のキーキーという声に似ていることから。その音は鳥のさえずりなどにもたとえられて、多くの俳句・川柳に残されている。

「五月闇水鶏ではなし人の家」五月の闇夜、どこかでクイナが鳴いているようだと耳をそばだててみると、なんのことはない、音の主は付木屋の家の付木を削る音だった。

付木売り『江戸職人歌合』(明応四年・1495)より
天秤棒を担ぎ「付木」を売り歩く老人。 添え歌は「灯火(あんどん)もけち(消し)て月をや眺むらん今日は付木を買う人もなし」「忘られば忘れん事も安付木きえて物おもふ我や何なる」。

団扇絵『闇の夜の蛍』絵師・玉蘭貞秀(天保十三年)
行灯に「付木」で火を灯さんとする女。
江戸末期に渡来したマッチは、オランダ付木、早付木、西洋付木、摺り付木などと呼ばれ、明治初期には国産化されるが、当時はまだ値の張る贅沢品であり、広く一般に普及するのは大正に入ってからのようだ。
瞬時に火をおこせるマッチの普及により、「付木」は過去の遺物となったが、今もわずかに製造され、神に捧げる灯明を点火する道具として、神棚・神具を扱う店で販売されている。

周辺地図
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火打道具・付木製造元
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かつて映画館「銀映座」があった十人衆町から、本町六丁目に抜ける小路を「付木小路」という。小路を抜けた左手は樹木の茂る児童公園(旧感恩講)、右手に新政酒造の酒蔵がある。
昭和初期までこの小路に「付木屋」があったことから、「付木小路」と呼ばれたが、今ではその名を知る人も少ない。
「付木・つけぎ」とは、杉や檜(ひのき)の薄く削られた木片の先端に硫黄を塗ったもの。火打石と火打金で切りだした火花を、火口(ほくち)に移し火種とし、これに「付木」の硫黄の部分を近づけると青紫色の炎をあげて燃えあがる。この炎をさらに薪に移して竃の火をおこし、またロウソクや行灯(あんどん)に点灯するために用いた。

付木
束にして売られた「付木」。経年変化により硫黄は変色し剥離もめだつ。
使うときは木目に沿って1~2cm幅に割って火を付ける。
「付木」が発明されるまで、小さく低温な火種から竃の火をおこすことは、頭から灰をかぶりながら、火吹き竹で「ふうふう」と空気を送る、主婦にとっては難儀な仕事であったが、「付木」の登場により容易に大きな炎を得ることができるようになる。
「付木」の記録がある最も古い文献とされる『源平盛衰記』(十三世紀頃)の中の「円満院大輔登山の事」に、「付木」は「付茸硫黄・つけたけいわう」の名で登場する。「つけたけ」というのは、その初期において材料に竹が多く用いられたためらしい。
時代は下って、江戸および太平洋側では「硫黄付木」を略した「付木」、京阪地方においては「硫黄・いわう」、九州から奥羽地方までの日本海側ではおもに「つけだけ」と呼ばれていた。
「硫黄・いわう」は「祝う」に通じ縁起がよいことから、隣近所からのもらい物の返礼として「付木」が使われた地方では、マッチの時代になってもその風習がのこり、頂いた重箱などの容器にマッチを入れ、「付木のかわりに」と言ってお返しにするのだという。
「付木」をつくる職人は「付木突き」「付木師」と呼ばれた。

付木師『今様職人尽百人一首』(享保)より
切り揃えた角材を長い鉋で削り(突き)、火鉢で温めて硫黄を塗る工程が描かれ、会話として「皆精を出しましょう。明日は休みでござるぞ」「おまつ、そこのあいろうをくりゃ」「此硫黄はよい花じゃの」と記されている。
添えられた歌は「鳴かせつつ つけ木屋 猿の真似をつく 硫黄付けつつ 藁束ねおく」。
「猿の真似」とは、付木を鉋で削るときに鳴る音が、猿のキーキーという声に似ていることから。その音は鳥のさえずりなどにもたとえられて、多くの俳句・川柳に残されている。

「五月闇水鶏ではなし人の家」五月の闇夜、どこかでクイナが鳴いているようだと耳をそばだててみると、なんのことはない、音の主は付木屋の家の付木を削る音だった。

付木売り『江戸職人歌合』(明応四年・1495)より
天秤棒を担ぎ「付木」を売り歩く老人。 添え歌は「灯火(あんどん)もけち(消し)て月をや眺むらん今日は付木を買う人もなし」「忘られば忘れん事も安付木きえて物おもふ我や何なる」。

団扇絵『闇の夜の蛍』絵師・玉蘭貞秀(天保十三年)
行灯に「付木」で火を灯さんとする女。
江戸末期に渡来したマッチは、オランダ付木、早付木、西洋付木、摺り付木などと呼ばれ、明治初期には国産化されるが、当時はまだ値の張る贅沢品であり、広く一般に普及するのは大正に入ってからのようだ。
瞬時に火をおこせるマッチの普及により、「付木」は過去の遺物となったが、今もわずかに製造され、神に捧げる灯明を点火する道具として、神棚・神具を扱う店で販売されている。

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