秋田駅前界隈・昭和四十年代初頭

秋田駅前周辺・昭和四十一年頃
戦前は十七連隊があった駅前周辺。終戦直後には青空マーケットが自然発生し、バラックの闇市、引揚者住宅などが雑然と建ち並んでいた駅前も、昭和二十三年頃から商店街が形成されはじめ、やがて商店や飲食店、約百三十軒が密集する地帯となった。

現在の秋田西武の場所には仙台高裁秋田支部、その隣、公営駐車場の場所は東北電力の敷地。
駅前から西へ向かう仲小路通りは、この時点では金座街で突き当たりになっていて、まだ開通していない。

平和通り、日通周辺
平和通りのアーケードの屋根が白く光っている。その南隣、銀座街の入り口には清酒メーカーのネオン看板。
道路を隔てた北側、日通秋田支店の回りにトラックが止まっている。隣接して秋田会館(パチンコ)、金万(金萬)、山甚ビル(やまじんビル→緑屋)、全音(レコード)、浅利旅館(女優・浅利加津代の生家)などが、アーケードでつながれている。
終戦後の復興期から、高度経済成長期を通して、県民に親しまれた駅前商店街界隈。一般庶民にはマイカーなど、まだ夢の夢の時代、夕方ともなれば、バス・汽車通勤のサラリーマンたちが、暗く薄汚れた小路の飲屋・食堂にたむろし、パチンコに興じ、休日は家族連れで賑わい、いつも活気に満ちていた。

撮影・昭和50年(1975)
国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省(C)
それから十年後、駅前再開発計画により、仙台高裁秋田支部と東北電力の建物は取り壊され空地になっているが、金座街から東側の建物にはまだ手がつけられていない。
銀座街、平和通り、末広町とその界隈の建物が取り壊された跡地に、昭和五十五年(1980)、イトーヨーカドーを核テナントにした、秋田ショッピングセンターがオープン、東北電力跡地には公営駐車場が営業開始。
昭和五十九年(1984)、高裁跡地に本金西武がオープン、金座街はアゴラ広場へと変貌をとげるのだが、その後のモータリゼーションの進展により、駅前からは徐々に往年の賑わいが消えはじめる。
雑然としていながらも、人のぬくもりがあふれていた駅前商店街界隈は、庶民が明日への夢を信じ、つつましくもいきいきと日々の生活を営んでいた、あの時代を象徴する場であり、そして、疲れたときに「帰りたくなる」心の故郷のような、都市計画という人為では決して造ることのできない魅力的な場所であったのだと、今になって思う。
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アトリオン
都内在住32歳の会社員です。
生まれてから大学卒業まで秋田に住んでおりました。
特に秋田市には小中学校と大学生と住んでいましたので、
自分が生まれる前の秋田駅前の風景に驚くと同時に感動いたしましました。
自分の記憶にはイトーヨーカドーや本金西武などがあった時代しかないので、
これらができる前の雑然としながらも活気に満ちた風景にある種の憧れを感じるほどです。
ところで駅前界隈の変遷について、
現在私の仲間内で一つ話題になっている事があります。
それはアトリオンの建つ前あの場所には何があったか?ということです。
仲間内は大体30代前半で、アトリオンが建ったのは平成元年ですから、中学生頃の出来事となります。
当然小学生時代にアトリオンが建つ前の風景を見ているはずですが誰も覚えていません。
秋田市内在住の仲間にアトリオンに直接問い合わせてもらいましたが、
当時を知る人がいないため分からないという回答であり、
回答が見出せないままでおります。
20世紀の秋田の歴史や文化風俗などに詳しいたふらんけ様なら何か知っているのではないかと思い、
ここにコメントさせていただきました。