堀端の町・手形堀反町

秋田駅西口から広小路に向い、パチンコ「リボン会館」を右折し、手形方面へ向かう通りの旧町名を手形堀反(ほりばた)町という。西側に堀があったがゆえに命名された町名のため、正確には通りの東側(秋田駅側)が手形堀反町ということになる。
秋田市内の堀端に由来する旧町名を挙げると、木内デパート向いの古川堀反町をはじめ、長野下堀反町、亀ノ丁堀反町、長野下堀反町、手形堀反町。堀端の町のためいずれもその昔は片側町であった。
秋田駅周辺の旧町名を長沼町と称したように、駅周辺から駅東の一帯は、長沼、手潟(手形)、赤沼などが断続する広大な沼地であったが、手形堀反町は佐竹氏の都市計画により、元和年間(1615-1624)、明田の富士山(ふじやま)の土を、長沼を大舟で運んで造成され、高禄の家臣が住む武家屋敷となる。

手形堀反町の堀は明治から大正時代にかけて埋立てられたが、堀を縁どる土手の面影は今も随所に残されている。

旧堀より土手の名残(上中城)を望む
現在、脳研や衛研など医療関係の建物が多くを占める上中城の高台は、藩政期は佐竹氏の重臣たちの大きな屋敷が連なり、明治期には、第十六旅団司令部、歩兵十七連隊の衛戍(えいじゅ)病院などが置かれた。

手形堀反町・上中城周辺
撮影・昭和50年(1975)
国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省(C)
堀跡には住宅が密集し、土手の名残である樹木が上中城の台地を取り囲むように残されている。大手門通りの西、右下の白い部分も埋立てられた堀の一部。
手前の建物は、秋田大学医学部附属病院(旧県立中央病院)。作家の南木佳士が医学生のころ、つらい臨床実習をくり返していた病院である。
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南木佳士『医学生』・秋大医学部
リボン会館右折の通り、どんどん建物が取り壊されてるとか…
冬の通学路でもあり、
ちょっと怪しげで、大好きだったのですが。
明田の冨士山、がちょっと懐かしいですね~~。