明治期の大手門通り


「衛戍病院を望む」画・広瀬柴波(石版印刷)
『千秋園風景』(明治三十六年)より

上中城の高台に建つ、衛戍(えいじゅ)病院を左手に、大手門通りの上り坂を広小路方向に歩く人影。水を湛えた堀には鴨が遊び、はるかかなたに鳥海山が頭をのぞかせている。

千秋公園二の丸の弥高神社前から坂を下りたところ(下図、赤マーキング位置)から南方を望むと、このような風景が広がっていた。

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昭和初期

すでに手形堀反町の堀は消滅している。

戦後、手前の堀は埋立てられ、残った堀も道路の拡幅により縮小される。大手門通りの拡幅および手形陸橋の工事が完工したのは昭和四十一年。

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衛戍病院全景・明治末期

道路が中央で不自然にカーブしているのは、二枚の写真を合成したためと思われる。

広小路の城の正門・大手門(追手門ともいう)をくぐり、脳研前の唐金橋(今は土橋)を渡って二の丸へ入る通路は、正式な登城コースであり、参勤交代の行列もここを通った。「大手門通り」という名は昭和五十九年に設定された愛称。

久保田城の中枢である本丸と二の丸をとりかこむ、三の丸に位置する上中城および、国学館高校の坂を下った下中城には重臣の屋敷が置かれた。この周辺はトップクラスの家臣が住む一等地。

明治三年、上中城の高台の一角に、藩主から藩知事となった佐竹義堯(よしたか)の私邸・中城御殿が新築されるが、明治四年の廃藩置県後、佐竹氏は東京へ移住。

明治末期、歩兵第十六旅団司令部、歩兵十七連隊の衛戍(えいじゅ)病院、連隊区司令部など軍の施設が置かれ、終戦後まで続いた。

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現在の大手門通り

●衛戍病院の変遷
戦中は陸軍病院と改称
昭和二十年 国立病院となる
昭和二九年 秋田県立中央病院完工(県立病院と国立病院が合併)
昭和四十三年 秋田県立脳血管研究センターオープン
昭和四十六年 県立中央病院を国に移管、秋大医学部附属病院発足
昭和五十一年 医学部附属病院、新病院(現在地)へ移転

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akiaki

たふらんけ様はじめまして。何時も楽しく拝見しております。
わらしの時、昭和44年の秋に中央病院に入院したことがありました。
写真左の病棟2階だったと思います。窓からは病棟に囲まれた小さめな池があり随分慰められた記憶があります。
雰囲気的には子供だった所為か冷たい感じだと記憶にあります。
1階に大きめな売店がありプラモデルも案外豊富に置いてありました。
未だに入院時の夢を見ますからトラウマなんでしょうね。

2006.12.31 Sun 23:46