川反にサーキット場があった時代

英国で生まれ、米国で爆発的大ブームをおこした、コースに刻まれた溝=スロットに沿って、モーター動力のモデルカーを走行させる、スロットレーシングが日本でブームとなったのは、昭和四十年(1965)。
玩具・模型メーカーがこぞってスロットカーを販売しはじめ、全国のゲームセンターやボウリング場などの娯楽施設に、次々に専用サーキット場がオープン、四十年の末には秋田市にもコースが開設された。

マルサンプラモデル
昭和四十年(1965)「週間少年マガジン」
こちらは自宅で遊ぶサーキットセットで価格は一万五千円弱。当時一番売れたのはニチモのホームサーキットセットで九千九百円というが、公務員の初任給が二万円ほどの時代、よほど裕福な家の子どもでなければ手にすることのできない夢の高級玩具であった。

明治製菓
昭和四十年(1965)「週間少年マガジン」
スロットレーシングは、製菓メーカーや雑誌の景品に高額玩具が使われるきっかけとなった商品。コントローラを握っているのは、明治マーブルチョコレートのCMで人気を得、子どもたちのアイドルだった上原ゆかりちゃん。
プラモデルの小型モーターで有名なマブチの創業者・馬渕健一は、電通PRと組んでスロットレーシングの普及をはかり、東京小岩にサーキット場を作るが、日本で始めてサーキット場を後楽園にオープンさせたのは、当時、米国のプラモデル会社レベルと提携していた郡是産業(のちのグンゼ産業)。
コースとレンタルカーをそろえて五~六百万円ほどかかるのだが、郡是の営業マンたちは「三カ月で元が取れる」と説いて回り、最盛期には一週間で十コースも作ったというから驚く。
秋田初のサーキット場「朝日グランプリサーキットコーナー」は、川反五丁目のキャバレー朝日があった建物(現・ソワレドビルの場所)の一階にオープン、経営は昭和の川反で一世を風靡した朝日興産。コースは全長38mを二台設置し、レンタル用のスロットカーは「世界中の有名スポーツカー300種類常備」。

昭和四十年(1965)新聞広告
昭和四十一年、広小路のセントラルデパート三階に「グランプリセントラルサーキット」がオープンするも、そのころからブームは急激に衰退していく。
その原因は車持ち込みで十五分間で大人百円、子供五十円が相場という、高額なレース場の料金があげられる。もうひとつは、ただでさえゲーム場は不良の温床といわれていた時代、年少者が盛り場に出入りするのは風紀上問題があり、経済的に仲間に入ることができない子どもが出現するのは好ましくないとの声が上がり、全国の小中学校で立入り禁止とされるにおよび、ブームは一挙に下火となった。
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追憶のモデルカー・レーシング
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秋田市広面に昨年末オープンしたスロットレーシング場
ありましたねぇ。うっすら記憶があります。
その後、セントラルの最上階にもあったような気が。
もちろん遊んだことはないす。見学だけ。
レーシングカーはとうとう買ってもらえなかったので、大人になってから復讐の意味で自分で買いました。(1日で飽きましたが・・)