殺された保存樹たち・寺町定点観察

秋田市寺町「歓喜寺」前 2003.09

秋田市寺町「歓喜寺」前 2005.02

秋田市寺町「歓喜寺」前 2006.11

秋田市寺町「歓喜寺」前 2007.01

秋田市寺町「歓喜寺」前 2003.09

秋田市寺町「歓喜寺」前 2007.01
国道7号を起点として、南通りから明田地下道を通り、横山金足線に接続する都市計画道路「川尻広面線」の用地にある「歓喜寺」の移転にともない、境内にあった、推定樹齢百五十年、樹高約30m、秋田市保存樹指定のケヤキ七本が伐採されてしまい、すっかり景観が変わってしまった。
保存樹指定解除から伐採に至る経緯が、秋田市のサイトに以下のように説明されている。
火葬の歴史は百年ほどでしかなく、それ以前は土葬があたりまえだった。古いお寺の改築や移転となると、土の下から土葬された棺が出てきて、それらは役所に書類を提出した後、火葬(改葬)に付し、また、火葬された遺骨もどこに埋もれているかも確定できず、一体たりとも供養できずに取り残されるようなことがあってはならない。歓喜寺の敷地が、秋田県で施行する秋田都市計画道路事業(川尻広面線)の用地となるため、現在、本堂や墓石などの物件を秋田市下北手地内に移転を進めている。
このことから、同事業の施行に支障をきたすため、保存樹に指定しているケヤキ7本の指定解除申請書が提出された。
7本の保存樹の下には土葬された棺があることが予想される。
土葬された遺体は、地下2mまでは、どこにでも土葬されている可能性があることから、慎重に掘削するため、幹の直近まで根がほとんど切られることになる。
そのためやむをえず、保存樹指定を解除し伐採されることになった。これが墓地でなかったらば、移転保存も考えられたのだろうが‥‥‥。
80年代に秋田市都市景観賞を受賞したように、寺町通りは緑濃く美しい小路。とくにこの周辺は、「歓喜寺」の黒板塀とあいまって、最も往年の寺町らしさが残る、ケヤキ並木の密集した場所であった。そのため都市景観賞のプレートも間近に掲示されている。
周囲のお寺のほとんどが石かコンクリートのブロック塀になった今、「歓喜寺」の黒板塀、おもむきのある山門と門前の地藏さんがもうすぐ消えてしまうのは淋しい。
「歓喜寺」前から鉄砲町角までは、写真のように、すでに10m道路が25mに拡幅されている。この拡幅された部分の「歓喜寺」から見て左手の道端に小さな地蔵堂があった。「札打ち」の十三番札所に指定された、なかなかおもむきのあるお堂だったが、昭和四十八年の豪雪で倒壊の危険が生じたため、その年に取り壊されてしまう。
お堂が取り壊されたあと、一緒にあった観音像は二十一番札所の普傳寺に移される。お地蔵さんと石碑はそのまま残され、道路拡幅で現在の託児所の前にセットバックされた。かつてのようなお堂もなく、雨ざらしになっているのが哀れだが、子どもを守るお地藏さんにとってはふさわしい場所ではある。

鉄砲町角にあった「城屋もちや」は、百年以上の歴史のある、すましもち、大福、なるともちなどを売る人気の店だったが、道路拡幅を機に廃業したようだ。
道路拡幅工事は五丁目橋まで完成、今後は横町から下肴町までの区間が拡げられることになる。
歓喜寺跡
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闇夜に響く札打ちの音
関連リンク
H18年 保存樹指定の解除について(秋田市公園課)
改築ではなく移転でしたか
はじめまして。京終と申します。
貴blogをいつも拝見しております。秋田のことについてとても勉強になります。これからもよろしくお願い致します。
歓喜寺正面の道路がきれいになっていたのは正月訪れた時に見て知っていましたが、計画線の用地内だったとは……
川反の喧騒から一転、ちょっと脇道に入るととても趣のあるのが寺町ですが、計画線のおかげでその趣もだいぶ変わってしまうようですね。
駅東から駅西動脈へのアクセスはよくなるはずだから無駄な計画だとは思いませんが、寺を潰し寺町を分断してまでやる必要のある計画なのか甚だ疑問です。