明治四十五年のミステリートレイン
●秋田発・行き先不明の珍旅行
明治の御代も、もうすぐ幕を下ろさんとする四十五年春、『秋田魁新報』誌上に「日曜遊覧団募集」なる不可解な広告が掲載された。

列車を使った日帰りの団体旅行らしいのだが、目的地の記述が無い。場所の項目には「主催者側に於て趣向あり當日まて内密なりとす」の一文。
これは行き先秘密の臨時列車、あのミステリートレインのことではないか!。
当日の様子を『秋田魁新報』が「珍的団体(一昨日曜日の)」、『秋田時事新聞』は「呑楽(のんらく)団体」の見出しで記事にしている。茶目生の署名がある『秋田時事新聞』の冒頭はこうだ。
大島商会店主、大嶋勘六は当時、商業会議所の議員であり、自らが主催した「自転車遠乗会」で列車を利用し、秋田駅長とも強いコネがあった関係から、このイベントの企画を担当したのだろう。
目的地の選定などすべて秋田駅長に一任し、その内容は発起人にさえも秘密であった。
四月十四日、日曜日の朝、秋田駅に集会したのは、商業会議所のイベントだけに、旅館・料理屋の主人たちや、商店の旦那衆をはじめとして、川反芸妓、新聞広告を見て応募した人々、関係者、新聞記者を含めた男女七十余名。

参加した四人の川反芸妓のうち、ぽん子と花子
●愈々出発・列車は何処へ
水越秋田駅長、廣瀬土崎駅長の先導で案内されたのは、明治四十一年に操業開始した土崎鉄工所(鉄道院土崎工場)。最新の設備と規模の大きさに会員たちは目を丸くしたという。
土崎鉄工所の見学を終えて土崎駅にもどり、午前十一時三十分発下り列車に乗ると酒宴が始まる。良い塩梅に酔いがまわったころ着いた駅は大久保駅であった。
八郎湖を眺めつつ1.5キロほど歩いた東伝寺の本堂で一休み。そこから更に細道を登り、ようやくたどり着いた場所は、飯田川公園の山頂であった。
現在は飯田川南公園の名で、山頂には八郎潟ハイツが建っている。明治三十八年の明治天皇御巡幸を記念して、二荒山を中心に整備されたという公園は、当時はまだ知名度の低い公園であったらしく、始めて見る光景を記者は次のように称賛している。
飯田川村長、助役を始め、小玉合名の主人らが会員を迎え、幔幕を張りめぐらした会場で、蓄音機から流れる音曲を聞きながら、飲めや歌えの大宴会。宴もたけなわに達したころ、隠し芸、福引き大会などもあり、帰りには鰡(ぼら)と鮠(はや)の鮮魚を入れた籠をお土産に、名残惜しくも午後四時の上り列車で大久保駅から帰路に着いた。
●世界初のミステリー列車?
「ミステリー列車」の歴史について、『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように解説されている。
もしかして、これは鉄道史を塗り替える発見なのか?!。
もしも、この「日曜遊覧」が完全なオリジナルだとしたら、英国の「ハイカース・ミステリー・エクスプレス」を遡ること二十年前、それを企画したと思われる大島氏らの奇抜な発想力と、大いなる遊び心には脱帽するほかはない。
しかし、海外または日本国内において、明治期に行き先を秘密した臨時列車が運行された可能性もあり、その記事を見聞きした大嶋氏らが、秋田駅長に企画を持ち込んだとも考えられるので、今のところは「ミステリー列車秋田発祥説」の可能性を提起するにとどめ、今後の調査課題としたい。
明治四十五年四月の「日曜遊覧」以前に実現した、行き先秘密列車について、なにか御存知の方がおられたら御教示を賜わりたい。
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関連リンク
ミステリー列車(Wikipedia)
八郎潟ハイツ
関連記事
自転車遠乗会・大島商会主催
大島商会(ひみつ基地内検索)
明治の御代も、もうすぐ幕を下ろさんとする四十五年春、『秋田魁新報』誌上に「日曜遊覧団募集」なる不可解な広告が掲載された。

列車を使った日帰りの団体旅行らしいのだが、目的地の記述が無い。場所の項目には「主催者側に於て趣向あり當日まて内密なりとす」の一文。
これは行き先秘密の臨時列車、あのミステリートレインのことではないか!。
当日の様子を『秋田魁新報』が「珍的団体(一昨日曜日の)」、『秋田時事新聞』は「呑楽(のんらく)団体」の見出しで記事にしている。茶目生の署名がある『秋田時事新聞』の冒頭はこうだ。
『魁新報』によれば、発起人は下肴町の大島商会を筆頭に、榮太楼、開運堂の二軒の菓子店、『秋田時事新聞』のほうは、商業会議所(商工会議所の前身)が統括する、と記している。◎呑樂(のんらく)團體 茶目生
珍趣向、奇拔奇拔、行き先判明せぬ目隱し團體、遊べ春、梅の花毛の延び次第と云ふ珍無類の呑樂團體である『秋田時事新聞』より
大島商会店主、大嶋勘六は当時、商業会議所の議員であり、自らが主催した「自転車遠乗会」で列車を利用し、秋田駅長とも強いコネがあった関係から、このイベントの企画を担当したのだろう。
目的地の選定などすべて秋田駅長に一任し、その内容は発起人にさえも秘密であった。
四月十四日、日曜日の朝、秋田駅に集会したのは、商業会議所のイベントだけに、旅館・料理屋の主人たちや、商店の旦那衆をはじめとして、川反芸妓、新聞広告を見て応募した人々、関係者、新聞記者を含めた男女七十余名。

参加した四人の川反芸妓のうち、ぽん子と花子
●愈々出発・列車は何処へ
午前八時三十分、会員を乗せた三等臨時列車は、秋田駅から奥羽本線を土崎方面に向かい同駅に停車。ヘエー皆さん何處へ行くんでしようか、上りでしよう、下りでしよう、いづれも有耶無耶五里霧中の裡に午前八時半、三等別仕立の臨時列車は土崎方面に向かつて發車した
『秋田時事新聞』より
水越秋田駅長、廣瀬土崎駅長の先導で案内されたのは、明治四十一年に操業開始した土崎鉄工所(鉄道院土崎工場)。最新の設備と規模の大きさに会員たちは目を丸くしたという。
土崎鉄工所の見学を終えて土崎駅にもどり、午前十一時三十分発下り列車に乗ると酒宴が始まる。良い塩梅に酔いがまわったころ着いた駅は大久保駅であった。
八郎湖を眺めつつ1.5キロほど歩いた東伝寺の本堂で一休み。そこから更に細道を登り、ようやくたどり着いた場所は、飯田川公園の山頂であった。
現在は飯田川南公園の名で、山頂には八郎潟ハイツが建っている。明治三十八年の明治天皇御巡幸を記念して、二荒山を中心に整備されたという公園は、当時はまだ知名度の低い公園であったらしく、始めて見る光景を記者は次のように称賛している。
山頂から眺める、まだ干拓されていない八郎湖は、さぞかし雄大かつ秀麗であったことだろう。其風景の絶雅なること遙に男鹿の嶋山、寒風山に眞山、本山の袴腰の一角は靄々(あひあひ)の裡に包まれ、手前は八郎湖の銀波は波も靜かに鏡の如く右に森山孤立として聳えたる其風光の明媚なることは未だ世に知らざる公園として吹聽する價値は充分である
『秋田時事新聞』より
飯田川村長、助役を始め、小玉合名の主人らが会員を迎え、幔幕を張りめぐらした会場で、蓄音機から流れる音曲を聞きながら、飲めや歌えの大宴会。宴もたけなわに達したころ、隠し芸、福引き大会などもあり、帰りには鰡(ぼら)と鮠(はや)の鮮魚を入れた籠をお土産に、名残惜しくも午後四時の上り列車で大久保駅から帰路に着いた。
●世界初のミステリー列車?
「ミステリー列車」の歴史について、『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように解説されている。
鉄道の歴史に関する書籍を何冊か読んでみたが、大体同じような内容であった。これが本当ならば、明治四十五年の四月、秋田において催された「日曜遊覧」の集いが、規模こそ小さいものの、世界初のミステリー列車で、秋田駅が発祥の地ということになってしまう。イギリスの鉄道において1932年(昭和7年)3月25日に1500人の乗客を集めて実施された「ハイカース・ミステリー・エクスプレス」が最初とされ、日本ではその列車を見た新聞記者が興味を持ち、当時の国有鉄道を運営していた鉄道省へこの企画を打診したのがきっかけとなり、それからわずか2ヶ月後の6月12日に「行先秘密?列車」の名で毎日新聞社との共同企画として運行されたのが創始である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
もしかして、これは鉄道史を塗り替える発見なのか?!。
もしも、この「日曜遊覧」が完全なオリジナルだとしたら、英国の「ハイカース・ミステリー・エクスプレス」を遡ること二十年前、それを企画したと思われる大島氏らの奇抜な発想力と、大いなる遊び心には脱帽するほかはない。
しかし、海外または日本国内において、明治期に行き先を秘密した臨時列車が運行された可能性もあり、その記事を見聞きした大嶋氏らが、秋田駅長に企画を持ち込んだとも考えられるので、今のところは「ミステリー列車秋田発祥説」の可能性を提起するにとどめ、今後の調査課題としたい。
明治四十五年四月の「日曜遊覧」以前に実現した、行き先秘密列車について、なにか御存知の方がおられたら御教示を賜わりたい。
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関連リンク
ミステリー列車(Wikipedia)
八郎潟ハイツ
関連記事
自転車遠乗会・大島商会主催
大島商会(ひみつ基地内検索)