ギターが欲しかった

川端たぬき

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1969・少年マガジン広告

兄がクラシックギターを持っていたが、いつでも使える自分専用のギターが欲しかった。
しかし、中学生のこづかいではとても手が届かない。

ある日、雑誌で「ギター組立キット」の広告を発見、「これなら買える!」と、ワクワクしながらハガキをしたため投函した。数日後、待ちに待った「キット」が到着。ボンドの乾燥を待ちながらすこしづつ組み立て、ついに弦を張る時がやってきた。張り終えてチューニングを試みるが、どうもうまくいかない。最初は調音されていても弾いているうちに徐々に狂ってくる。「まあこんなものか、練習できればいい」と自らを納得させ、その日は眠りにつく。数日後、学校から帰宅した私を待ち受けていたものは、ネックがグニャリと曲って壊れた、無残な姿のギターだった。原因は弦の張力に耐えきれずネックを支える部分が破壊されたため。

そのキットは確かにこのメーカーのものだったと思う。
キットとはいえ、ギターがこの値段で買えること自体がおかしいのだが、当時の自分にとって、わずかなこづかいを貯めて購入したものが、数日でゴミと化すという体験はショックだった。家族からは笑われ、これじゃあ最初から完成品の「カワイコちゃんもよろこぶ!ミニ・ギター」を買ったほうがよかったと悔やんでも後の祭り、「安物買いの銭失い」ということわざを、身にしみて実感するのだった。

当時の少年雑誌の広告には、あやしげなものや、今では許されないであろう、あきらかな誇大広告が多い。誇大表現も許される、おおらかな時代だったともいえるが、それは、祭りの露店に並べられたありふれた商品が、テキヤのオヤジの口上ひとつで、光り輝く宝物にみえるのと似ている。テキヤの口上のような通販広告のコピーは、少年たちの想像力とシンクロして夢を増幅しつづけた。大半が対象物を手に入れた段階で落胆して終わる、つかの間のはかない夢である。夢の覚めるまでのつかの間の狂おしき想いは、プラトニックラブのように少年の記憶に刻まれる。

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