竿燈は勇む火消の心意気

昼竿燈風景・大正末期頃
広小路での昼竿燈風景。左手に穴門の掘、その先の中土橋の入り口には、国旗が掲揚された緑門(りょくもん・植物で造られたゲート)がみえる。カラー写真のまだ無い時代、製版段階で職人の勘を頼りに三色分解して印刷された絵葉書。

拡大してみると提灯には、本町六丁目の町紋「軍配団扇」が描かれ、竹梯子に上る火消(ひけし)をかたどった「勇み人形」が、継ぎ竹に取りつけられている。

現在の「勇み人形」・本町六丁目
06.08 竿燈妙技会

06.08 竿燈妙技会
同様な火消人形や、火消の象徴である「纏・まとい」が、藩政期の竿燈の装飾にすでに使われていたという記録が残っているが、何故に竿燈にこのような火消のシンボルが使われているのか?
本町六丁目(現・大町六丁目)は、指物師、挽物師の住んだ職人町、少し前までは家具店が並ぶ「家具の町」として名をはせた町。
竿燈は外町(とまち)の、大工、鳶職、指物師、鍛冶師など、職人たちの技によって製作・工夫されて今に至るが、なかでも、その中心にあって竿燈を支えてきたのは、火消を勤めた鳶職(とびしょく)たちだったといわれている。
昔の火消は、消火ではなく破壊消防。風下の家屋を破壊して延焼を防ぐのが主で、荒っぽいその仕事を任されていたのが、身軽に高所に登る鳶職や、建物の構造を熟知した大工などの、威勢の良い職人たちであった。
組の印が描かれた纏は火消のシンボルであり、これを見れば、消し口(けしぐち・ 延焼防止ライン)がどこにあり、どの組が担当しているのか一目瞭然であった。「 火事と喧嘩は江戸の華」といわれるように、火災現場でも消し口の奪い合いで、火消同士の大喧嘩が絶えなかった。
はたして、江戸時代から幕末、明治期にかけて町火消を担当した、「鳶の者」たちの仕事はどのようなものだったのだろうか。
‥‥前略‥‥
町抱への人足が火事場に出て働くのは役目であって、火事の度に給料を貰ふという訳ではない。唯年に一度、町内の印半纏を貰ふのであるが、それでは暮らしが立たない。町火消の生活費は何処から出たというに、それは町内の頭が受け持って其の営繕工事、建築、縄いはひ等をすべて鳶の者の独占とし、他の者は断じて手を出すことを許されなかつたのである。
大工や壁職の用に供する足場、地固め、町内の道路修繕、溝渠の掃除等鳶人足のすべき仕事はなかなか多かった。彼らはここに其の生活費を仰いで居たのである。かくの如く彼らの生活費は一切町内から出たので、彼らは其の役目として火事といえば、いずれも身命を賭して働いたのである。
‥‥中略‥‥
さて、町火消の役目は唯、消防のことばかりであったかといふと決してそうではない。彼らは純然たる一種の市民兵であつた。いやしくも暴力を揮って都市の秩序を破壊せんとするものがあるに於いては其の浮浪人たると、武士たるとを問わない。彼らは、多くの場合裸に素手で白刃の下をかひくぐったのである。
‥‥後略‥‥白柳秀湖『親分子分・侠客篇』東亜堂書房・明治四十五年
このように、江戸・東京の鳶職たちは、建設業と町火消しのほか、道路の修繕からドブさらいのような雑用までこなし、町内に入ってくるならず者に対して命をかけて闘う自警団でもあり、その粋でいなせな姿は子どもたちにとって憧れの対象であった。
祭りの奉納金を集め、取り仕切るのも鳶の役目であった。祭日に露店を張るテキ屋の例を持ちだすまでもなく、日本の祭りと侠客の縁は深く、彼らが祭りを支えてきた歴史を否定できない。

火消装束役者絵・豊原国周

横浜写真・明治初期
書き割り富士の前で、火消弓張提灯と鳶口(とびぐち)を手にした火消若衆。鳶口は旧安田火災の社章にも描かれた鳶職の必須アイテムで、消火作業にも使われたもの。背中には「水滸伝」らしき見事な刺青(いれずみ)が彫られている。町火消たちが体に墨を入れるのは、自らの侠気と士気を高めるためだ。

旧「安田火災」社章
※横浜写真とは、主に欧米への土産として、幕末から明治期に横浜で制作された写真、職人がモノクロ写真の上に精緻な彩色を施している。
秋田の町火消組で名が残っているのは、鍛冶町の鍛冶職人・鋳物師らで組織した「鍛冶組」、興業師で組織した、上亀ノ丁の「蔦屋組」、目明(めあかし=岡っ引き)が結成した寺町の万平組、増屋組など。
仕事柄、火を恐れず勇猛果敢、城下にその名をとどろかせた、鍛冶町の「鍛冶組」。大工や左官、石工などの職人町で芝居小屋もあった上亀ノ丁の「蔦屋組」は、八橋全良寺炎上の際に、土崎の「いさみ組」と先陣を争って大喧嘩をくりひろげたという。
江戸の町火消「いろは四十八組」のほとんどは鳶職であったが、秋田においてはそれ以外の職人が多く参加していたようだ。

かつて町火消「蔦屋組」が存在した上亀ノ丁の纏飾り
06.08 竿燈妙技会
江戸の消防組織には、町方の「町火消」の他に、武家の「大名火消」、幕府の運営する「定火消」の三組織が存在した。天和二年(1682)、久保田藩が江戸の火消し役を命じられる。この佐竹家の大名火消組は主に浅草界隈で活躍した。

出動する大名火消(部分)・歌川広重「江戸乃華」より
組印を入れた左右対の高提灯を先頭に出動する大名火消の姿に、町紋を入れた高提灯を先頭に行進する町内竿燈の姿がダブってみえる。火消しの高提灯は竿燈の原型のひとつといえるのかもしれない。
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関連リンク
本六竿燈会 勇み人形
本六竿燈会
江戸町火消の心意気
消防防災博物館:見て学ぶ-鳶頭政五郎覚書
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