久保田城の裏門を訪ねる

千秋公園の二の丸、胡月池を望む鯉茶屋前から本丸に至る石段を、裏御門坂、略して裏門坂という。かつては石段を登り、さらに左折して登りきった場所に久保田城の裏門が存在し、今は礎石だけが残っている。


千秋公園 裏門跡

千秋公園から消えた裏門は、秋田市寺町の曹洞宗寺院・鱗勝院の山門として生まれ変わった。


鱗勝院 山門

明治十九年四月三十日、秋田町を大火(通称・俵屋火事)が襲い、外町を中心とした約三千五百戸が全焼、寺町の寺院のほとんども貴重な文化財とともに焼失してしまう。

その後、焼失した伽藍を再興するに際して、佐竹家から拝領したのが現在の山門である。鱗勝院はもともと、佐竹家の転封により常陸から移ってきた、佐竹東家六代義直の夫人、保徳院が創建した佐竹家ゆかりの寺院。

この元裏門は、安永七年(1778)久保田城大火の際に焼失し、その後再建したもの。もともとは千秋公園に復元された表門のような二層楼(二階建て)だったが、鱗勝院への移築にともない現在の形になった。



裏門の原型は失われ、瓦葺きの屋根は後年、銅板葺きになったものの、二百余年前の築材はそのままで、永年の風雪に耐えた歴史と風格を感じさせる、堂々たる山門となっている。

藩政時代から現存する久保田城の建造物は、表門前の御者頭御番所と、この元裏門だけとなった。


木組の美

鱗勝院は「秋田音頭」発祥の地としても知られる。寛文三年(1663)七月、踊り手らが寺に集まって数日間にわたり協議、町踊りとしての原型があった「秋田音頭」を、柔術の型をヒントに現在のものに近い振り付けがされたという。

千秋公園・裏門跡と鱗勝院・山門の画像を合成して、久保田城の裏門を復元してみた。二層楼であったことを考慮し、高さを若干延ばしている。



久保田城・裏門跡

鱗勝院

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