戦争と石油危機と厚生車
●戦争が生んだ厚生車の時代
昭和四十年代初頭まで、人力車に似た車体に自転車を結合させた「厚生車」、いわゆる「輪タク」(自転車タクシー)が街を走り、秋田駅前で客待ちをする光景がみられた。

秋田駅前 昭和30年頃
「厚生車」のような人力三輪自転車が実用化され、全国的に普及しはじめるのは昭和十五年頃からである。
昭和十二年の日中戦争勃発後、自動車に対するガソリン消費規制は徐々に厳しさを増し、交通事業者は木炭など代用燃料への切換え、企業の整理統合を余儀なくされた。現在の「秋田合同タクシー」は、もともとは市内のタクシー業各社が、昭和十五年に整理統合された会社である。
昭和十六年に入ると米国の対日石油輸出禁止により,バス・ハイヤー・タクシーへのガソリンの割当てが全面停止された。
そんな世相のなか、大正中期から自動車の増加によって減少しつづけていた人力車の台数が増加、それの改良車である「厚生車」とともに、ふたたび脚光を浴びることになる。
「厚生車」の運転手は人力車夫からの転向や、失業したタクシー運転手が主であった。当時の「キングタクシー」の社長はタクシー会社を企業統合で手放し「厚生車」へ転向、「キング厚生車」の名で自ら運転したのが成功し、手放した営業権を買い戻して、再び会社を起ちあげたという。
●新聞広告に見る厚生車

昭和15.11 新聞広告
土崎港加賀町の「旭更生舎」は、車の販売と運転業務を兼業していたのだろうか。「人力タクシー車出現!!」というコピーからして、ここが秋田初の「厚生車」取扱店だった可能性もある。
「厚生車」という言葉について前々から疑問に思っていたが、「更生車」がその語源だろう。はじめに「更生車」のネーミングで車を販売、もしくは営業していた業者を手本に、後発の「厚生車」が誕生したと想像できる。
旧時代の人力車を「再びよみがえさせる」=「更生」させたのが「更生車」であり、戦時中は「厚生車」「国民車」「国策車」などと名付けられた、さまざまなタイプの車両が製造された。ちなみに、戦後になって戦時中に改造された「木炭車」を、再びガソリン車に再生させたバスも「更生車」と呼ばれた。

昭和16.04 新聞広告
こちらは「優先車」とネーミングされた客席が後部に付くタイプで、茶町の「遠藤自転車店」が代理店になっている。

昭和17.01 新聞広告
流線型の堅牢なカバーで客席が覆われた、サイドカータイプのちよっとカッコイイ「国民車」。

昭和17.04 新聞広告
価格は百五十円から三百五十円まで。「医師用」とあるが、戦後も診療鞄を抱えた医者が「厚生車」に乗って往診に出かける姿がみられた。社名が「旭更生舎」から「旭更生車」と変わっているのは誤植かも知れない。
●厚生車の戦後
終戦後の物資不足の時代も人力車と「厚生車」が活躍し、昭和二十三年の時点で全国で約一万三千台が営業しているものの、復興が進む昭和二十五年頃からは徐々に「三輪自動車タクシー」が「厚生車」に取って代わりはじめる。
昭和三十九年、秋田市内における「厚生車」の台数は六台。六十歳過ぎの高齢運転手ばかりで、料金は旧市内で七十円から百円。テレビを「厚生車」の客席に乗せて運んでいるのを見た記憶があるが、この時代、荷物の運搬が約八割を占め、あとの二割が主に高齢の常連客。運賃が安いことから、若い客が「自分の父親に難儀をさせているようで心苦しい」と、チップをはずむ場合も多かったという。
それから数年後、街から「厚生車」の姿が消えた。
アジア圏では今でも広く「厚生車」に似た自転車タクシーが利用されており、日本が明治初期に輸出した「人力車」を語源に、インド圏では「リクシャー」とも呼ばれている。また、先進国においても近年、エコロジーを考慮した新時代の交通手段として、自転車タクシーが見直されはじめている。

平成19.09 広小路にて
「秋田わか杉国体」期間中に市内を運行した、ドイツ製電動アシスト付き自転車タクシー「ベロタクシー」。主にボディのラッピング広告の収益によって運営されるため、運賃が比較的に低く抑えられている。
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松の木に刻まれた戦争
関連リンク
自転車タクシー フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
世界の自転車タクシー(PDFファイル) 製作:東京工業大学 屋井研究室
昭和四十年代初頭まで、人力車に似た車体に自転車を結合させた「厚生車」、いわゆる「輪タク」(自転車タクシー)が街を走り、秋田駅前で客待ちをする光景がみられた。

秋田駅前 昭和30年頃
「厚生車」のような人力三輪自転車が実用化され、全国的に普及しはじめるのは昭和十五年頃からである。
昭和十二年の日中戦争勃発後、自動車に対するガソリン消費規制は徐々に厳しさを増し、交通事業者は木炭など代用燃料への切換え、企業の整理統合を余儀なくされた。現在の「秋田合同タクシー」は、もともとは市内のタクシー業各社が、昭和十五年に整理統合された会社である。
昭和十六年に入ると米国の対日石油輸出禁止により,バス・ハイヤー・タクシーへのガソリンの割当てが全面停止された。
そんな世相のなか、大正中期から自動車の増加によって減少しつづけていた人力車の台数が増加、それの改良車である「厚生車」とともに、ふたたび脚光を浴びることになる。
「厚生車」の運転手は人力車夫からの転向や、失業したタクシー運転手が主であった。当時の「キングタクシー」の社長はタクシー会社を企業統合で手放し「厚生車」へ転向、「キング厚生車」の名で自ら運転したのが成功し、手放した営業権を買い戻して、再び会社を起ちあげたという。
●新聞広告に見る厚生車

昭和15.11 新聞広告
土崎港加賀町の「旭更生舎」は、車の販売と運転業務を兼業していたのだろうか。「人力タクシー車出現!!」というコピーからして、ここが秋田初の「厚生車」取扱店だった可能性もある。
「厚生車」という言葉について前々から疑問に思っていたが、「更生車」がその語源だろう。はじめに「更生車」のネーミングで車を販売、もしくは営業していた業者を手本に、後発の「厚生車」が誕生したと想像できる。
旧時代の人力車を「再びよみがえさせる」=「更生」させたのが「更生車」であり、戦時中は「厚生車」「国民車」「国策車」などと名付けられた、さまざまなタイプの車両が製造された。ちなみに、戦後になって戦時中に改造された「木炭車」を、再びガソリン車に再生させたバスも「更生車」と呼ばれた。

昭和16.04 新聞広告
こちらは「優先車」とネーミングされた客席が後部に付くタイプで、茶町の「遠藤自転車店」が代理店になっている。

昭和17.01 新聞広告
流線型の堅牢なカバーで客席が覆われた、サイドカータイプのちよっとカッコイイ「国民車」。

昭和17.04 新聞広告
価格は百五十円から三百五十円まで。「医師用」とあるが、戦後も診療鞄を抱えた医者が「厚生車」に乗って往診に出かける姿がみられた。社名が「旭更生舎」から「旭更生車」と変わっているのは誤植かも知れない。
●厚生車の戦後
終戦後の物資不足の時代も人力車と「厚生車」が活躍し、昭和二十三年の時点で全国で約一万三千台が営業しているものの、復興が進む昭和二十五年頃からは徐々に「三輪自動車タクシー」が「厚生車」に取って代わりはじめる。
昭和三十九年、秋田市内における「厚生車」の台数は六台。六十歳過ぎの高齢運転手ばかりで、料金は旧市内で七十円から百円。テレビを「厚生車」の客席に乗せて運んでいるのを見た記憶があるが、この時代、荷物の運搬が約八割を占め、あとの二割が主に高齢の常連客。運賃が安いことから、若い客が「自分の父親に難儀をさせているようで心苦しい」と、チップをはずむ場合も多かったという。
それから数年後、街から「厚生車」の姿が消えた。
アジア圏では今でも広く「厚生車」に似た自転車タクシーが利用されており、日本が明治初期に輸出した「人力車」を語源に、インド圏では「リクシャー」とも呼ばれている。また、先進国においても近年、エコロジーを考慮した新時代の交通手段として、自転車タクシーが見直されはじめている。

平成19.09 広小路にて
「秋田わか杉国体」期間中に市内を運行した、ドイツ製電動アシスト付き自転車タクシー「ベロタクシー」。主にボディのラッピング広告の収益によって運営されるため、運賃が比較的に低く抑えられている。
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自転車タクシー フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
世界の自転車タクシー(PDFファイル) 製作:東京工業大学 屋井研究室