哀しきひなまつり

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『うれしいひなまつり』
作詞:サトウハチロー  作曲:河村光陽

この歌はメロディがマイナー調であることもあって、「うれしい・たのしい」という言葉とは裏腹に、えも言われぬ哀感の漂う童謡だ。

サトウハチローがこの詩を書いたのは、昭和十年。そのころハチローは、最初の妻と離婚して、三人の子ども引き取っていた。まだ母親が恋しい年頃の子供たちのために、豪華な雛人形を買い与えると、娘たちはうれしそうに、一日中お雛さまのそばで過ごしていたという。そんな子供たちの姿をみて、この歌の構想が浮かぶ。

河村光陽がメロディをつけ、光陽の長女の純子がレコードで歌うと、瞬く間に世間に広がり、ひな祭り童謡の定番となった。

ところが、ハチロー自身はこの歌を嫌っていた。
戦後、ラジオやテレビからこの曲が流れると「おい、切れよ」と不機嫌になり、晩年まで「だれか、これにとって代わるひな祭りの歌を書いてくれないかなあ」とぼやいていたという。

ハチローの二男、佐藤四郎は、その原因のひとつについて、「歌を作ったころ、既にみな他界していた同じ母を持つ姉妹への思いではないか」と言う。

子供のころ、腰の大やけどのため満足に歩けず、家の中で遊ぶことが多かったハチローは、四歳年上の姉喜美子からピアノの手ほどきを受け、詩的視点などで大きな影響を受けた。嫁ぎ先も決まっていた貴美子だったが、肺結核に冒されて、婚約も一方的に破棄され、お嫁に行かずに十八歳で亡くなってしまう。色白のお姉さんだった。

お嫁にいらした 姉様に
よく似た官女の 白い顔

ハチローは、「お嫁にいらした姉様に」と、せめて歌詞の中ではお姉さんを嫁がせることで、この歌を鎮魂歌としたのだろうか。だとしたら、その歌を聞くたびに大好きだった姉のことが思いだされて、つらくて仕方なかった、だからこの歌を嫌ったのではないだろうか。

八竜町が生んだ鬼才・友川かずきはこの曲が好きで、ライブではよく唄う。
曲の合間にあおるアルコールが良い塩梅に回った中盤あたりに、ささやくように静かに唄われる「ひなまつり」は、美しくも哀しく身に染み入る。


うれしいひなまつり/友川カズキ