那波祐生と感恩講
NPO実証研究の第一人者、ジョンズ・ホプキンス大教授、レスター・サラモン博士は、米国の権威ある外交評論誌「フォーリン・アフェーズ」に掲載された論文、「福祉国家の衰退と非営利団体の台頭」のなかで、秋田感恩講のことをとりあげている。
日本初の民営による窮民・孤児救済機関「感恩講」を起した那波祐生は、安永元年(1772)六月三日、御用商人・那波家の長子として生れ、文化三年(1806)、父の後を継ぎ、第九代那波三郎右衛門の名を継ぐ。

明治三十八年『感恩講図巻 ALBUM DE L'ASSOCIATI0N "KAN-ON-KO"』より
京都の大火災により財産を失い、宝永五年(1708)やむなく秋田に入り、藩の御用商人として再興を果たした那波家だったが、茶町居住のころに昼火事にあい、またしても邸宅その他一切を失ってしまったため、祐生は貧困のなかで成長した。
ある日、外町の鎮守・八橋の山王社(現日吉八幡神社)に参詣した祐生は、家業を再興させ、凶作で苦しむ人々の助けになりたいと祈願し、「食事やそのほかの欲望は我慢しますので、私の願いを、どうかかなえて下さい」と誓願する。
文政二年(1819)、祐生は藩の殖産政策の一環として設立されていた「絹方」の支配人に登用され、その後、那波家でも絹織業を興し、家業の立て直しに成功、それを契機として、城下における屈指の豪商に成長していく。しかし祐生は、豊かになっても倹約に励み、質素な生活を続けた。
文政十年(1827)、奉行所に年末の挨拶に出かけた祐生は、町奉行・橋本五郎左衛門から、たび重なる凶作と飢餓により、久保田でも生活に困窮する町民が増加していたため、「藩主が貧民救済の御意向があるが、運用資金調達方法を検討して欲しい」と相談される。それは若いときに貧苦を経験した祐生にとっても、かねてからの念願であった。
考え抜いた末に祐生の立てた計画は、献金を募りその金銀で知行地(農地)を買い入れ、そこから上がる年貢収入で、平年は貧民を救済し、凶作の年には飢餓に苦しむ人たちを助け、毎年の収入の半分は救済に使い、残りの半分は貯蓄するというもの。この方法をとれば、出金者個々の経済力に影響されることなく、恒久的に安定した活動を維持することができる。
祐生はまず、自ら金四百両の献金を願い出、翌十一年から東奔西走し外町の有力町人に働きかけ、同十二年二月に至って同志七十二人の賛同を得る。祐生の熱意と善意に動かされ、一般町民の中からも加入者が増え、構成員は百九十一名となり、献金は金二千両、銀十貫匁となる。その金銀で知行地を購入し、ようやく財政基盤が出来上がる。
文政十二年(1829)、藩では、この事業団体に「感恩講」という名称を与え、献金者に対して、毎年重ね餅を配ることにした。餅配りは恒例となり、その後も長く続けられたという。祐生を中心とした町民の善意と、さらに藩の支援を受け「感恩講」という、民間主導の画期的な救済事業が誕生した。
天保元年(1830)から翌年にかけて、本町六丁目・東側の火除地に備蓄米を保存する蔵二棟を建設。町民有志の献金や、木材、石材の寄付、労力奉仕があり、藩からも瓦・門・柵などの寄贈があったため、予算の半分の額で完成する。

籾貯蔵倉庫・天保年間建築
天保四年(1833)、東北地方はかつてない大飢餓に見舞われ、翌五年にかけて餓死や疫病死があいつぐ。
天保六年(1835)になり、ようやく世間も落ち着きをとりもどす。藩では天保四年の大凶荒に際して、救済活動に力を尽くした功績をたたえるとともに、「感恩講の知行高千石に限って歩合無しとするので、これを元手として備蓄に励み、今後大凶荒があっても救済活動に支障のないようにして欲しい」というお達しがあった。祐生はかねてからの念願であった貧民救済事業が軌道にのり、ほぼ当初の目的が達成されたとして、報謝のため、山王社に青銅の鳥居を奉納する。

青銅鳥居には建立の由来と、たずさわった工人たちの名が刻まれている
天保八年(1837)、祐生は藩に対して、久保田町だけにとどまらず、さらに郡部にも事業を広げ、凶作時に備えて飯米や金銭を蓄えておくべきと進言するが、それから間もなく祐生は亡くなり、子どもの祐章に家業と感恩講が引継がれる。享年六十六歳、死の間際まで私利私欲を離れて、貧民救済に心血を注ぎつづけた晩年であった。
祐生の精神は、藩政期をへて明治・大正・昭和・平成と、組織の変動、存続の危機を乗り越え、脈々と受けつがれ、現在は寺内に感恩講児童保育院として残り、代々那波三郎右衛門が理事長を務めている。

遠藤幸雄選手
東京オリンピックの金メダリスト・遠藤幸雄(現日大文理学部教授)は、感恩講児童保育院の出身。
体操競技で、日本人初の個人総合優勝をなしとげ、ローマからの団体三連覇にも貢献した遠藤は、昭和十二年秋田市に生まれ、小学校の時に母親が病死、父親は事業で失敗、中学から高校まで、当時は亀の町にあった児童保育園で過ごした。その恩を忘れず、毎年の盆暮れには、遠藤から那波家に宛てて、お菓子代として金一封が送られてくるという。

感恩講・明治期 秋田市大町(旧本町)六丁目
昭和五十一年まで建物と蔵が残っていた

感恩講跡地
現在は児童公園になり、「感恩講発祥地」の碑が建っている
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歴史の浅い米国と比較されても困るのだが、一九世紀、日本の地方都市に生まれた、NPO(民間非営利組織)の存在はサラモンにとっては驚きであったようだ。……日本においても慈善活動は仏教の時代までさかのぼることができるし、「報恩社」(正しい訳は感恩講)という近代的慈善組織がすでに1829年に設立されている。これは米国で慈善活動が始まるほぼ一世紀前の話である。
邦訳は「中央公論」平成六年十月号に掲載
日本初の民営による窮民・孤児救済機関「感恩講」を起した那波祐生は、安永元年(1772)六月三日、御用商人・那波家の長子として生れ、文化三年(1806)、父の後を継ぎ、第九代那波三郎右衛門の名を継ぐ。

明治三十八年『感恩講図巻 ALBUM DE L'ASSOCIATI0N "KAN-ON-KO"』より
京都の大火災により財産を失い、宝永五年(1708)やむなく秋田に入り、藩の御用商人として再興を果たした那波家だったが、茶町居住のころに昼火事にあい、またしても邸宅その他一切を失ってしまったため、祐生は貧困のなかで成長した。
ある日、外町の鎮守・八橋の山王社(現日吉八幡神社)に参詣した祐生は、家業を再興させ、凶作で苦しむ人々の助けになりたいと祈願し、「食事やそのほかの欲望は我慢しますので、私の願いを、どうかかなえて下さい」と誓願する。
文政二年(1819)、祐生は藩の殖産政策の一環として設立されていた「絹方」の支配人に登用され、その後、那波家でも絹織業を興し、家業の立て直しに成功、それを契機として、城下における屈指の豪商に成長していく。しかし祐生は、豊かになっても倹約に励み、質素な生活を続けた。
文政十年(1827)、奉行所に年末の挨拶に出かけた祐生は、町奉行・橋本五郎左衛門から、たび重なる凶作と飢餓により、久保田でも生活に困窮する町民が増加していたため、「藩主が貧民救済の御意向があるが、運用資金調達方法を検討して欲しい」と相談される。それは若いときに貧苦を経験した祐生にとっても、かねてからの念願であった。
考え抜いた末に祐生の立てた計画は、献金を募りその金銀で知行地(農地)を買い入れ、そこから上がる年貢収入で、平年は貧民を救済し、凶作の年には飢餓に苦しむ人たちを助け、毎年の収入の半分は救済に使い、残りの半分は貯蓄するというもの。この方法をとれば、出金者個々の経済力に影響されることなく、恒久的に安定した活動を維持することができる。
祐生はまず、自ら金四百両の献金を願い出、翌十一年から東奔西走し外町の有力町人に働きかけ、同十二年二月に至って同志七十二人の賛同を得る。祐生の熱意と善意に動かされ、一般町民の中からも加入者が増え、構成員は百九十一名となり、献金は金二千両、銀十貫匁となる。その金銀で知行地を購入し、ようやく財政基盤が出来上がる。
文政十二年(1829)、藩では、この事業団体に「感恩講」という名称を与え、献金者に対して、毎年重ね餅を配ることにした。餅配りは恒例となり、その後も長く続けられたという。祐生を中心とした町民の善意と、さらに藩の支援を受け「感恩講」という、民間主導の画期的な救済事業が誕生した。
天保元年(1830)から翌年にかけて、本町六丁目・東側の火除地に備蓄米を保存する蔵二棟を建設。町民有志の献金や、木材、石材の寄付、労力奉仕があり、藩からも瓦・門・柵などの寄贈があったため、予算の半分の額で完成する。

籾貯蔵倉庫・天保年間建築
天保四年(1833)、東北地方はかつてない大飢餓に見舞われ、翌五年にかけて餓死や疫病死があいつぐ。
発足して間もない感恩講では資金がまだ不十分ではあったが、このような非常時にこそ救援活動を行うべきであると、藩からの支援も受け、祐生たちは不眠不休で救済活動を続けた。飢餓を訴え救助を求めてきた家は、約一千戸、父母を亡くした孤児の数は百二十人以上。これらの人々に施米の世話をし、病人への薬代や医療費、埋葬料を与え、孤児たちには保育の世話をした。その費用の大半は、祐生が私財を投じてまかなったという。感恩講では天保四年八月から翌年九月までの間、延べ四十三万人に対して施米している。通町橋から六丁目橋の下まで、橋の下は浮浪者でいっぱいとなった。死人をむしろに包んで背負いながら歩く者、橋の下で子を産む母親、親子兄弟に死に別れ、悲しんでいる者、途中で子供を捨ててたどりついた親などさまざまであった。通町橋など午前十時ごろになると二百人以上もの浮浪者が橋の両側に立ち並んで物乞いをし、通行もままならないほどであり、夜などは物騒で外出できない状態であった。
『秋田飢饉誌』より
天保六年(1835)になり、ようやく世間も落ち着きをとりもどす。藩では天保四年の大凶荒に際して、救済活動に力を尽くした功績をたたえるとともに、「感恩講の知行高千石に限って歩合無しとするので、これを元手として備蓄に励み、今後大凶荒があっても救済活動に支障のないようにして欲しい」というお達しがあった。祐生はかねてからの念願であった貧民救済事業が軌道にのり、ほぼ当初の目的が達成されたとして、報謝のため、山王社に青銅の鳥居を奉納する。

青銅鳥居には建立の由来と、たずさわった工人たちの名が刻まれている
天保八年(1837)、祐生は藩に対して、久保田町だけにとどまらず、さらに郡部にも事業を広げ、凶作時に備えて飯米や金銭を蓄えておくべきと進言するが、それから間もなく祐生は亡くなり、子どもの祐章に家業と感恩講が引継がれる。享年六十六歳、死の間際まで私利私欲を離れて、貧民救済に心血を注ぎつづけた晩年であった。
天保元年には土崎感恩講が発足し、明治期までに秋田県内の感恩講(秋田感恩講とは別組織)の数は十八カ所。そのなかで、祐生が創設した秋田感恩講が救済した人員は、明治四十二年の時点で、延べ四百三万四千余名に及ぶ。「講」は上のものにも非ず、下のものにも非ず
藩主のものではなく、那波のものでなく、出資者のだれのものでもない
『感恩講誌』より
祐生の精神は、藩政期をへて明治・大正・昭和・平成と、組織の変動、存続の危機を乗り越え、脈々と受けつがれ、現在は寺内に感恩講児童保育院として残り、代々那波三郎右衛門が理事長を務めている。

遠藤幸雄選手
東京オリンピックの金メダリスト・遠藤幸雄(現日大文理学部教授)は、感恩講児童保育院の出身。
体操競技で、日本人初の個人総合優勝をなしとげ、ローマからの団体三連覇にも貢献した遠藤は、昭和十二年秋田市に生まれ、小学校の時に母親が病死、父親は事業で失敗、中学から高校まで、当時は亀の町にあった児童保育園で過ごした。その恩を忘れず、毎年の盆暮れには、遠藤から那波家に宛てて、お菓子代として金一封が送られてくるという。

感恩講・明治期 秋田市大町(旧本町)六丁目
昭和五十一年まで建物と蔵が残っていた

感恩講跡地
現在は児童公園になり、「感恩講発祥地」の碑が建っている
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昭和40年頃の話だすよ
昔だば、おえの母さんがら聞いた話だすども、大町の旧い家の婆さんが、よぐ、
何とかして「たもれ」
っていってあったらしス。
内町がら外町さ嫁いで来た嫁さんの子孫だべがど思ったス。外町でも武家の血どご引き継いであったんだすべが。