秋田中央道路に武士の幽霊

asahi.com 2008年9月15日の記事に「武士の幽霊が事故を呼ぶ? 秋田のトンネル1年で19件」。
秋田中央道路が開通して15日で1年を迎える。秋田駅の東西をつなぐ交通の激しいトンネルで、交通事故や車の故障などで通行止めになることも多い。ちまたでは「武士の幽霊が出る」などとうわさも流れる。事故多発の背景を探った。幽霊については記事にあるように、ありがちな都市伝説にすぎないのだろうが、竿燈まつりが広小路から山王大通りに移った当時、雨にたたられる年がつづいたため、関係者が相談の上、当福寺にて寺町に眠る御霊(みたま)を鎮める祈祷をとり行い、それ以後好天に恵まれるようになったことがあった。asahi.com より
東西に延びる山王大通り、ならびに一丁目小路(ニューシティ脇小路)から五丁目小路(横町)はもともと、寺町で行き止まり。藩政時代の寺町は西から来る敵に備えた防衛線でもあった。
昭和十年、二丁目小路(現・山王大通り)の二丁目橋線が当福寺境内・墓地を貫通して新国道に結ばれる。戦後になり昭和四十年代の道路拡幅でさらに大幅に削られて山王大通りが完工した。
山王大通り南側の真敬寺の入り口には「5人男の墓」と呼ばれる墓石が五つ並んでいる。長崎孝住職(69)によると江戸時代に悪事を働く武士を倒し、打ち首になった侠客(きょうかく)たちの墓という説がある。「侠客五人男」は明暦(1655-1658)の頃、八橋山王さんの祭典のとき、暴行をはたらく武士を見かねて殺害したもの。庶民が武士を殺したとなれば打ち首は必至、そのため彼らは覚悟して自害したというから、この世に未練をもって化けて出るはずもない。それにしても、自らの命を賭してまで正義を貫く、昔の侠客はカッコイイ。asahi.com より
このエピソードを持ち出すならば、戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟を離脱しようとする秋田藩の説得に来藩し、事故多発地点に近い、茶町の旅館で殺害されて五丁目橋にさらし首に、残る者は捕らえられ処刑された、仙台藩士十二名の怨念とするほうが、ストーリー的には説得力がある。

五丁目橋・川反観音
仙台藩士のさらし首が並べられた五丁目橋のたもとに建立された「川反観音」。
かつてこの場所で営業していた小料理屋の主人が、約三十年間、毎日店で線香をあげて仙台藩士の供養をしていた。五丁目橋の拡幅工事でその店が取り壊されることになったとき、常連客らから慰霊碑建立の話が持ち上がり、平成十二年、除幕式が執り行われた。
台座には「この観音像は秋田戊辰の役に先立つ慶応四年七月四日、この地で殉難された仙台藩士を供養し、川反をこよなく愛した先人に感謝し、慰霊するために、多くの方々のご芳志により建立するものです」とあり「夕されば 川反の灯はやすらげり 観音像に 路ゆく人に」の句が刻まれている。
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