瀟洒なる文化の殿堂・秋田県記念館
大正七年、千秋公園入口の高台に秋田県記念館(正式名称・大正天皇御即位記念会館)竣工、天長節の十月三十一日に開館式が執行された。このとき秋田市広小路に面した東根小屋町に県立秋田図書館(正式名称・大正天皇御即位記念図書館)も同時に開館する。

秋田県記念館

現在の同地点 ジョイナスと県民会館
県民会館の前身(二代目)にあたる県記念館が存在したのは、現在の「秋田県生涯学習センター分館・ジョイナス」(旧・県立図書館)の場所だが、その入口よりも前方に大きくせり出し、奥行きのある建物であった。

昭和初期
特徴的なドーム屋根を中央に、両翼にマンサード屋根をのせた、左右対称の木造二階建てルネッサンス様式建築。工費十一万円弱(教員の初任給が十五円ほどの時代)、収容人員千四百人。
県建築技師の新林恒治が設計を担当、設計顧問として明治大正期に活躍し、東京駅や日本銀行の設計者として高名な辰野金吾が参画している。

辰野金吾設計・東京駅・大正三年竣工
県記念館の中央ドームおよび半円形のペディメントの造形は、辰野金吾が設計した東京駅の南北二つのドームとペディメントを連想させる。昭和二十年の東京大空襲で大きな被害を受け、特徴的なドームも破壊されてしまった東京駅は現在復元工事中。
大正十五年秋田市を訪れた、能代出身の美術史家でフランス文化の紹介者・成田重郎は県記念館を「ヨーロッパ風の純粋な様式に学び、よくルネッサンス式の特徴をとりいれ、しかも秋田図書館とともに、木造だが二つまでも、東北の一隅にあることは愉快だ。優雅で繊細で洗練されており、アカ抜けがしていて、しかも厳然。」と評価している。

昭和十四年
県記念館はもともと、北隣に存在したルネッサンス様式建築の県公会堂の補助施設として、両物件の調和を考慮して設計されたもの。
県公会堂は講演会や会議など集会には適していたが、終了後の宴会には不便であったため、その隣に立食のできる洋式のパーティー会場として着工する。しかし、県記念館の完工を前にした大正七年四月二十九日、県公会堂は惜しくも焼失。計画を変更して落成した県記念館はそれ以来、県公会堂に変わる文化の殿堂としての役割を負うことになる。

戦後の秋田市成人式
昭和二十九年に山王体育館(秋田市立体育館)がオープンするまで、大人数を収容可能な県内唯一の大ホールであったことから、公式行事、各種集会、演奏会・演劇・講演会はもとより、美術展、展示即売会、ボクシング、プロレス、ダンスパーティー、テレビジョン実験公開放送・・・・・・と様々なイベントが開催されたほか、大正十四年十月には、摂政宮(昭和天皇)の御宿泊所に選ばれている。
県記念館に足跡を残したアーティストの一部をあげると、昭和五年・十年、エフレム・ジンバリスト(バイオリニスト)、昭和九年、エリアナ・パブロバ(バレリーナ)、昭和十一年、三浦環(日本のプリマドンナ)、昭和二十八年、ラザール・レヴィ(ピアニスト)。昭和十二年六月には、奇跡の人・ヘレンケラー女史が来館、講演会を開き話題となった。

中土橋通りから、ゆるやかにカーブを描く左右の坂を上ると、列柱に支えられ中央に突出した車寄せに至る。県記念館をバックにしたロケーションは定番の記念撮影ポイントだった。
文化の殿堂、秋田市のシンボルとして永く県民に親しまれ、千秋公園の森を背景に瀟洒な姿をみせていた県記念館は、昭和三十五年、老朽化を理由に解体、その幕は永遠に下ろされ、跡地には県立図書館ならびに県民会館がオープン。
あえていうまでもなく、再開発というのは新たな「箱物」をつくることだけではなく、文化的再開発とでもいおうか、今あるものを再び蘇らせ、それを活かすことでもあるのだが、明治中期からの洋風建築が良く保存されている山形などと比べると、秋田県人は新しもの好きで古いものを大切にしない傾向が強かった。
県記念館を安易に解体することなく、同時に開館した広小路の図書館とともに修復保存され、さらには焼失した県公会堂も残っていたら、千秋公園入口の一帯は、緑と水に囲まれた近代文化遺産保存ゾーンとして異彩を放っていたことだろう。せめて県記念館だけでも残っていたらと惜しまれる。


県記念館ジオラマ・県民会館内に展示
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関連リンク
二〇世紀ひみつ基地 県立秋田図書館・広小路
二〇世紀ひみつ基地 壮麗なる文化の殿堂・秋田県公会堂

秋田県記念館

現在の同地点 ジョイナスと県民会館
県民会館の前身(二代目)にあたる県記念館が存在したのは、現在の「秋田県生涯学習センター分館・ジョイナス」(旧・県立図書館)の場所だが、その入口よりも前方に大きくせり出し、奥行きのある建物であった。

昭和初期
特徴的なドーム屋根を中央に、両翼にマンサード屋根をのせた、左右対称の木造二階建てルネッサンス様式建築。工費十一万円弱(教員の初任給が十五円ほどの時代)、収容人員千四百人。
県建築技師の新林恒治が設計を担当、設計顧問として明治大正期に活躍し、東京駅や日本銀行の設計者として高名な辰野金吾が参画している。

辰野金吾設計・東京駅・大正三年竣工
県記念館の中央ドームおよび半円形のペディメントの造形は、辰野金吾が設計した東京駅の南北二つのドームとペディメントを連想させる。昭和二十年の東京大空襲で大きな被害を受け、特徴的なドームも破壊されてしまった東京駅は現在復元工事中。
大正十五年秋田市を訪れた、能代出身の美術史家でフランス文化の紹介者・成田重郎は県記念館を「ヨーロッパ風の純粋な様式に学び、よくルネッサンス式の特徴をとりいれ、しかも秋田図書館とともに、木造だが二つまでも、東北の一隅にあることは愉快だ。優雅で繊細で洗練されており、アカ抜けがしていて、しかも厳然。」と評価している。

昭和十四年
県記念館はもともと、北隣に存在したルネッサンス様式建築の県公会堂の補助施設として、両物件の調和を考慮して設計されたもの。
県公会堂は講演会や会議など集会には適していたが、終了後の宴会には不便であったため、その隣に立食のできる洋式のパーティー会場として着工する。しかし、県記念館の完工を前にした大正七年四月二十九日、県公会堂は惜しくも焼失。計画を変更して落成した県記念館はそれ以来、県公会堂に変わる文化の殿堂としての役割を負うことになる。

戦後の秋田市成人式
昭和二十九年に山王体育館(秋田市立体育館)がオープンするまで、大人数を収容可能な県内唯一の大ホールであったことから、公式行事、各種集会、演奏会・演劇・講演会はもとより、美術展、展示即売会、ボクシング、プロレス、ダンスパーティー、テレビジョン実験公開放送・・・・・・と様々なイベントが開催されたほか、大正十四年十月には、摂政宮(昭和天皇)の御宿泊所に選ばれている。
県記念館に足跡を残したアーティストの一部をあげると、昭和五年・十年、エフレム・ジンバリスト(バイオリニスト)、昭和九年、エリアナ・パブロバ(バレリーナ)、昭和十一年、三浦環(日本のプリマドンナ)、昭和二十八年、ラザール・レヴィ(ピアニスト)。昭和十二年六月には、奇跡の人・ヘレンケラー女史が来館、講演会を開き話題となった。

中土橋通りから、ゆるやかにカーブを描く左右の坂を上ると、列柱に支えられ中央に突出した車寄せに至る。県記念館をバックにしたロケーションは定番の記念撮影ポイントだった。
文化の殿堂、秋田市のシンボルとして永く県民に親しまれ、千秋公園の森を背景に瀟洒な姿をみせていた県記念館は、昭和三十五年、老朽化を理由に解体、その幕は永遠に下ろされ、跡地には県立図書館ならびに県民会館がオープン。
あえていうまでもなく、再開発というのは新たな「箱物」をつくることだけではなく、文化的再開発とでもいおうか、今あるものを再び蘇らせ、それを活かすことでもあるのだが、明治中期からの洋風建築が良く保存されている山形などと比べると、秋田県人は新しもの好きで古いものを大切にしない傾向が強かった。
県記念館を安易に解体することなく、同時に開館した広小路の図書館とともに修復保存され、さらには焼失した県公会堂も残っていたら、千秋公園入口の一帯は、緑と水に囲まれた近代文化遺産保存ゾーンとして異彩を放っていたことだろう。せめて県記念館だけでも残っていたらと惜しまれる。


県記念館ジオラマ・県民会館内に展示
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関連リンク
二〇世紀ひみつ基地 県立秋田図書館・広小路
二〇世紀ひみつ基地 壮麗なる文化の殿堂・秋田県公会堂