お堀に囲まれた洋館・秋田赤十字病院

日本赤十字社秋田支部病院
旧藩時代は兵具庫(武器庫)が並んでいた、周囲をお堀で囲まれる風致に恵まれた旧城地に、大正三年七月一日「日本赤十字社秋田支部病院」が開院する。これが初代の秋田赤十字病院であり、東北北海道地区で最初の赤十字病院だった。
日本赤十字社が佐竹家所有の土地を市から無料で借り受け、明治大正に活躍し、東京駅や日本銀行の設計者として高名な辰野金吾に設計を依頼。辰野は県民会館の前身にあたる「秋田県記念館」の設計顧問として参加しているが、正式な設計者として名を残しているのは県内でこの物件のみと思われる。
敷地面積約七二〇四坪、建物総坪数一八二〇余坪、建設費十一万九千六百円(教員の初任給十円ほどの時代)。建築請負人は「秋田県記念館」と同じく市内の堀井永助。
中央と左右に円型ドームを配したベランダ付き木造二階建、辰野金吾が同時期に設計した東京駅を彷彿させるルネッサンス洋式建築。旧鷹匠町側の外堀に土橋を築き、病院への出入り口とした。

辰野金吾設計・東京駅・大正三年竣工

当初は病床数七五、内科、外科、産婦人科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科を設け、看護婦養成所、看護婦寄宿舎を併設。
初代院長として京都大学出身の山内半作(当時三十五歳)を招聘、医局は京大学閥を中心に構成された。秋田の外科を築いたといわれる山内半作は、京大時代の明治四十三年に、日本で初めての臓器移植(自家腎移植)の動物実験を行った人物としても知られ、秋田時代は川反芸者に良くもてたという。

千秋公園より赤十字病院および鷹匠町方面を望む
設備の整った病院が少なかった時代に誕生した赤十字病院には県民の期待が寄せられ、診療を開始すると、午前七時の受付開始というのに六時頃から、市内はいうにおよばず郡部からも、外来患者が続々とつめかけて終日混雑したという。
ちなみに、当初の入院費(食事代を除く)は、特等室(一人部屋・副室付、夜具・黄八丈)二円五十銭。一等室(一人部屋、夜具・黄八丈)一円五十銭。二等室(二人部屋、夜具・銘仙)一円。三等室(五~八人部屋、夜具・木綿)六十銭。
まだ社会保険制度がなく、教員の初任給が十円ほどの時代の入院費である。夜具(布団)の生地が黄八丈・銘仙・木綿とランク付けされているのが面白い。

病室 昭和九年頃

レントゲン室 昭和九年頃

「鷹の松」と赤十字病院(人着印刷)

現在の同地点 08.12


現在の同地点 08.11

昭和三年・秋田市街図

藩政期の兵具庫付近・ジオラマ
かつての外堀の記憶が地形に刻まれている、初代「秋田赤十字病院」跡地。明治三十年代、秋田高等女学校(現・北高)の建設候補地になったが、当時は外堀から腐臭が漂っていたため敬遠され、最終的に中島の現在地に校舎が建てられることに。
●その後の秋田赤十字病院
昭和十四年、秋田支部病院を秋田市東根小屋町、県立秋田中学跡地に新築移転。

第二代「赤十字病院」東根小屋町(中通小学校向かい)
昭和十八年、秋田支部病院を「秋田赤十字病院」と改称。
昭和四十三年、中通地区に新築移転。

第三代「赤十字病院」中通一丁目
昭和四十九年、仲小路をはさんだ北側、秋田保健所跡に「秋田県交通災害センター」開院。秋田県が整備した施設を赤十字病院が運営、両施設の三階を渡り廊下で結んだ。

「秋田県交通災害センター」中通一丁目
平成十年、秋田市上北手に新病院開院。
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