生ゴミ回収車が来た時代

厨芥車「スクリュードラム」 昭和三十年代
ペイントされた文字は「はえのいないまちに」
昭和三十年代後期の生ゴミ回収風景。
生ゴミの入れ物は、バケツ、洗面器、ボウルとさまざまで、なかには木製の桶のようなものもみえる。夏休みだろうか、子供たちが物珍しそうに眺めているのが、ほほえましい。
昭和三十六年(1961)八月、秋田市八橋に七十五トンのゴミ焼却炉が完成。しかし、この焼却炉は残飯類のような水分がたっぷり含んだゴミ処理には向かない非力なものであったため、焼却炉を効率良く運転するには、生ゴミは一般ゴミと分別し、投棄所に捨てるしかなかった。
そのため、市では厨芥車二台を購入、週二回、市内四百二十三カ所を回り、各所に三分間ずつ停車させ、生ゴミを収集することにし、収集日、時間、場所などをチラシや広報で市民に徹底させた。厨芥車が到着すると、鈴を鳴らして住民に知らせるようにしたが、最初のうちはアイスキャンデー売りと間違われて、ますば子供が集まってきたという、いかにものんびりとした時代らしいエピソードもある。生ゴミの回収は、特に夏季の悪臭とハエに悩まされていた主婦にとって、とてもありがたい行政サービスであったという。
はじめは投棄所に捨てていた生ゴミも、のちには豚のエサとして活用されるようになる。市内の養豚業者は、ちゃっかりと厨芥車の後についてまわり、残飯だけを集めていったが、経費と手間の削減になるのだから、市では文句は言えないどころか、むしろありがたい協力者であった。

八橋清掃センター
左上に陸上競技場
昭和四十三年(1968)、八橋に百八十トン焼却炉が完成し、生ゴミは分別しなくとも焼却できるようになり、一般ゴミと一緒に混合収集されるようになった。