消えた帽子店・帽子文化の隆盛とその衰退

2004.03
秋田市中通三丁目、中央通りの山内歯科ビル隣りで 2006年初夏まで営業していた「吹浦帽子店」。
戦前は中央通りの突き当たり、旭川の土手をくずして造成した、勧工場(かんこうば)と呼ばれた連鎖商店街に店舗を構えていたが、昭和20年の強制建物疎開により、勧工場が取り壊され東側に移転。

土手長町通り 勧工場 昭和初期
右端に「春の新型帽子豊富取揃」の看板が突き出す「吹浦帽子店」、建物の裏は旭川。左手に「秋田物産館」(現・北都銀行本店営業部)。
明治から大正、昭和とつづいた帽子文化は、生活スタイルの変化から戦後になって徐々に衰退、男子学生の全員が被っていた学帽も、一部の学校を除いていつのまにか消滅、その影響をモロにうけた多くの帽子専門店が、転業もしくは廃業に追い込まれた。中通小学校の北、池永小路角の遠藤帽子店も早くに転業している。

昭和41年 新聞広告
学区に一軒はあった帽子店、もしくはそれをあつかう店から、学校に入学する男子の全員が校章の輝く学帽を購入し、壊れたときには修理に出したのだから、その需要が無くなることは、専門店にとっては死活問題だった。

千秋公園二の丸
前掲の「イベント広場としての二の丸・千秋公園」で使用した画像に写る二の丸は、さまざまなスタイルの帽子で埋めつくされて、戦前の被帽率の高さを物語っている。

明治44年『紳士の服装』より
左上が土崎の湊祭りでもお馴染みの、麦わらで編んだカンカン帽、叩くとカンカンと音が出るほど固く編まれているため、この名がついたという。その左下に紳士の間で流行した正装の山高帽(中山帽)、ホック帽というのは鳥打帽子(ハンチング)のことで、商人・職人・丁稚さん等が愛用した。
以下にあげた広告は、明治期から帽子を主力商品にした、秋田市下肴町のハイカラ商店・大島商会の広告。中央の画家に図案を依頼するなど、広告に力を入れていただけあって、ひと味違う洒落たデザインが眼を惹く。

書籍広告 明治40年
‥‥前略‥‥
大島商會が標榜する主要の商品は帽子一式にして能く歐米最新流行の粹を聚め冬帽には山高、中折、テライ型、米利堅型、東郷型、フヰールド型、モルトル型、ホック型、海軍式、男女學生幼兒用あり。夏帽には又純パナマ、本邦パナマ、タスカン、リントン、ブラヂリアン、レグホルン、棕梠、麥稈等あり。更に又禮用シルクハットありて有らゆる種類網羅す。故に曰く
蕗 は 秋 田
帽 子 は 大 嶋明治42年 書籍広告より

新聞広告 明治43年

新聞広告 大正10年

旧大島商会店舗
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