消えた老舗銭湯「辻の湯」新大工町
● “六道の辻”の湯屋「辻の湯」

06.05
この3月末(2009)に閉湯した、秋田市大町一丁目の銭湯「辻の湯」が、5月の末に解体・整地され、跡地は駐車場へと姿を変えた。
保戸野鉄砲町から通町へと向かう突き当たり、旧新大工町の界隈が藩政時代から“六道の辻”と呼ばれていたことから命名された、江戸末期の開湯という、永い歴史をもつ老舗銭湯であった。“六道の辻”については、改めて記事にする予定。
「辻の湯」の裏通りが下米町一丁目、その南の下米町二丁目は藩政時代から明治初めにかけて料亭と遊郭が建ち並んだ花街だったから、そこの姐さん方も、きっとこの湯屋に通い、昼間からおおいに賑わったことだろう。遊郭がすぐ近くの南鉄砲町に移ったあとも。
「辻の湯」の名称について、平成元年の秋田魁新報の取材記事に、「昭和22年までは「鶴の湯」。この年、火事で焼けてしまい。先代の利三郎さんがゲン直しに看板を変えたようだ。」とある。
しかし、明治41年に刊行された『秋田県案内記』の、旧秋田市内における「洗湯(せんとう)屋」の項目には、「六道辻 辻の湯」の記載があるものの「鶴の湯」の名はない。

明治41年『秋田県案内記』より
そして、先日まで掲げられていた看板は、戦前の書式である“右横書き”、つまり「湯乃辻」であった。

以上のことから、創業時からの名称「辻の湯」が戦前から戦後にかけての一時期「鶴の湯」と改名され、戦後再び復旧したもので、「湯乃辻」の看板は、焼失をまぬがれた戦前からのものか、もしくはそれを復元したものと推測される。
先日まで存在した「辻の湯」の建物は、火災にあった昭和22年以降の建築で、その後に改装しているものの、約60年の歳月を刻んで、年期を感じさせる風情が随所に残されていた。

解体直前 09.05(以下4枚も同じ)





04.09
●旧秋田市内の老舗銭湯

明治41年『秋田県案内記』より
明治41年に旧秋田市内で営業していた、蒸し風呂を含めた湯屋のなかで、比較的最近まで営業していたのは、「辻の湯」をはじめ、亀ノ丁西土手町「梅の湯」、豊島町「亀の湯」、保戸野川反「杉の湯」の三軒か。
西土手町(有楽町通り)の「梅の湯」は、五丁目橋から有楽町へ曲がった場所にあった、川反の芸者さんたちも常連の銭湯で、廃業後は焼鳥屋などが入居するビルに改築されたが、数年前に解体、跡地に「居酒屋・三昧」がオープン。
豊島町(大町五丁目)の「亀の湯」は、アルカリ性鉄泉の地下水をくみ上げた鉱泉で、タオルが赤褐色に染まったという名湯。ここが廃業するまで、市内には豊島町と南通に、二軒の「亀の湯」が存在したことになる。
保戸野川反の「杉の湯」は金谷旅館の浴場、昭和10年と11年に来県したドイツ人建築家・ブルーノ・タウトが宿泊した折りに入浴したことで知られている風呂。詳細は以下関連リンクに。
●時代の波に消えてゆく銭湯

高度経済成長期が進行するなか、内風呂の普及率上昇による客の激減にはじまり、設備の充実したいわゆるスーパー銭湯の出現、さらには燃料費の高騰などで苦しい経営がつづき、経営者の高齢化もかさなり銭湯は次々に廃業し姿を消してゆく。
昭和39年には44軒を数えた秋田市内の銭湯も、残るのは「星の湯」(南通みその町)と「手形の湯」(手形山崎町)の二軒のみ。
世代を超えた庶民のサロン、地域住民のコミュニケーションセンターとしての機能を兼ね備えていた、銭湯とその文化の残り火も、もはや風前のともしび。
その衰退はさみしいことだが、これも時代の流れ、自然淘汰というほかなく、銭湯に通わなくなって久しい自分には、それをとやかく云う資格もない。

04.03
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06.05
この3月末(2009)に閉湯した、秋田市大町一丁目の銭湯「辻の湯」が、5月の末に解体・整地され、跡地は駐車場へと姿を変えた。
保戸野鉄砲町から通町へと向かう突き当たり、旧新大工町の界隈が藩政時代から“六道の辻”と呼ばれていたことから命名された、江戸末期の開湯という、永い歴史をもつ老舗銭湯であった。“六道の辻”については、改めて記事にする予定。
「辻の湯」の裏通りが下米町一丁目、その南の下米町二丁目は藩政時代から明治初めにかけて料亭と遊郭が建ち並んだ花街だったから、そこの姐さん方も、きっとこの湯屋に通い、昼間からおおいに賑わったことだろう。遊郭がすぐ近くの南鉄砲町に移ったあとも。
「辻の湯」の名称について、平成元年の秋田魁新報の取材記事に、「昭和22年までは「鶴の湯」。この年、火事で焼けてしまい。先代の利三郎さんがゲン直しに看板を変えたようだ。」とある。
しかし、明治41年に刊行された『秋田県案内記』の、旧秋田市内における「洗湯(せんとう)屋」の項目には、「六道辻 辻の湯」の記載があるものの「鶴の湯」の名はない。

明治41年『秋田県案内記』より
そして、先日まで掲げられていた看板は、戦前の書式である“右横書き”、つまり「湯乃辻」であった。

以上のことから、創業時からの名称「辻の湯」が戦前から戦後にかけての一時期「鶴の湯」と改名され、戦後再び復旧したもので、「湯乃辻」の看板は、焼失をまぬがれた戦前からのものか、もしくはそれを復元したものと推測される。
先日まで存在した「辻の湯」の建物は、火災にあった昭和22年以降の建築で、その後に改装しているものの、約60年の歳月を刻んで、年期を感じさせる風情が随所に残されていた。

解体直前 09.05(以下4枚も同じ)





04.09
銭湯ののれんを出れば良夜(りょうや)かな 吉屋信子10年ほど前まで、通町に面した「辻の湯」の隣りに、湯上がりの常連も晩酌を傾ける「だるま食堂」という雰囲気のよい大衆食堂があって、ボリューム満点の肉鍋、とくに味噌味の肉鍋が旨かった。
●旧秋田市内の老舗銭湯

明治41年『秋田県案内記』より
明治41年に旧秋田市内で営業していた、蒸し風呂を含めた湯屋のなかで、比較的最近まで営業していたのは、「辻の湯」をはじめ、亀ノ丁西土手町「梅の湯」、豊島町「亀の湯」、保戸野川反「杉の湯」の三軒か。
西土手町(有楽町通り)の「梅の湯」は、五丁目橋から有楽町へ曲がった場所にあった、川反の芸者さんたちも常連の銭湯で、廃業後は焼鳥屋などが入居するビルに改築されたが、数年前に解体、跡地に「居酒屋・三昧」がオープン。
豊島町(大町五丁目)の「亀の湯」は、アルカリ性鉄泉の地下水をくみ上げた鉱泉で、タオルが赤褐色に染まったという名湯。ここが廃業するまで、市内には豊島町と南通に、二軒の「亀の湯」が存在したことになる。
保戸野川反の「杉の湯」は金谷旅館の浴場、昭和10年と11年に来県したドイツ人建築家・ブルーノ・タウトが宿泊した折りに入浴したことで知られている風呂。詳細は以下関連リンクに。
●時代の波に消えてゆく銭湯

銭湯すたれば 人情もすたる「辻の湯」の脱衣所にあった、銭湯へのオマージュが綴られたこのポスター、銭湯にエアコンを納入する業者が配布したのがはじまりらしく、今も全国の銭湯に、場合によっては額装されて掲示されている。
銭湯を知らない子供たちに
集団生活のルールとマナーを教えよ
自宅にふろありといえども
そのポリぶろは親子のしゃべり合う場にあらず、
ただ体を洗うだけ。
タオルのしぼり方、体を洗う順序など、
基本的ルールは誰が教えるのか。
われは、わがルーツをもとめて銭湯へ。
詩人 田村隆一
(毎日新聞より)
高度経済成長期が進行するなか、内風呂の普及率上昇による客の激減にはじまり、設備の充実したいわゆるスーパー銭湯の出現、さらには燃料費の高騰などで苦しい経営がつづき、経営者の高齢化もかさなり銭湯は次々に廃業し姿を消してゆく。
昭和39年には44軒を数えた秋田市内の銭湯も、残るのは「星の湯」(南通みその町)と「手形の湯」(手形山崎町)の二軒のみ。
世代を超えた庶民のサロン、地域住民のコミュニケーションセンターとしての機能を兼ね備えていた、銭湯とその文化の残り火も、もはや風前のともしび。
その衰退はさみしいことだが、これも時代の流れ、自然淘汰というほかなく、銭湯に通わなくなって久しい自分には、それをとやかく云う資格もない。

04.03
銭湯の廃業届け菜種梅雨 高杉杜詩花
惜しまれて消ゆる銭湯一葉忌 吉田京子
銭湯の跡地射干(しゃが)咲いてをり 高澤良一
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