赤松のまだ傷癒えぬ終戦日

川端たぬき

はじめに「松の木に刻まれた戦争」をご覧下さい。

●終戦記念日特集「続・松の木に刻まれた戦争」


昭和20年8月9日付『秋田魁新聞』より

間もなく終戦を迎えようとする8月初旬、赤ん坊をおんぶした母が、松の木から松脂を採る姿をとらえた写真を配した、新聞記事の見出しは『サァ皆んで採らう 素敵な航空燃料 これで飛ぶゾ 友軍機も』。

なにしろ大東亜戦争も末期の物資不足の時代、紙質の悪さに加え、貴重なインクの節約のため、文字がかすれて判読困難な部分が多い記事から一部を引用。
サァ皆んで採らう
 素敵な航空燃料
   これで飛ぶ 友軍機も

一本でも多く採れ
今にもの見よ米鬼ども、天与の航空油資源は訪れる勝機にぐんぐん溜る一方、割当採集の指定を受けた各町村では森林組合を中心として各地松林の活用を取り定めて目標突破を期しているが、‥‥後略‥‥
勇ましく躍る言葉が空しい。

つづいて、松脂の採集方法について。
まず松の幹に眼の高さ程の個所から根元少し上の部分まで六、七十センチの間を幹の廻り三分の二位の幅で表面の樹皮を剥ぎとり、次に剥ぎとった部分の中央部に一本溝をつけ、ここに釘などを打って脂入れを取りつけ、この溝を中心に下の方から約四十五度の角度で溝を切りつけること、溝の深さは木質部に約一ミリ程入る程度に注意すること、方法はこれだけで、これだけやって置いたら次の日には約二十グラムは溜まっている、溝からは一日間より脂が出ないから二日目は前の溝の上の方約一センチの間隔にまた切口をつける、こうしておけば女子供でも毎日二十グラムは楽に採れるし、松は死にはしない、
このようにして採った松脂を工場で水蒸気蒸留し、航空機燃料に加工するテレピン油を精製する。

もうひとつの採取方法は、「松根油」(しょうこんゆ) という名称が示すように、伐採しておおよそ10年以上が経過し、琥珀のように変質した松の根を掘り出し、釜で蒸し焼き(乾留)にしてテレピン油を精製する方法。

厳密に分類すれば、松の根から精製した油を「松根油」というのに対して、松脂から精製したものを「松精油」といい、松根油の方が品質が劣る。

しかし、松の古株のほうが含油量が多いことから乱掘され、生産が間に合わなくなった末期には、松のほかに杉、檜など常緑樹の古株、さらには生木を伐採した上での採掘も行われるようになり、防風林・森林の荒廃が全国に広がる。

終戦までに採掘された松根は約84万トン、戦闘機を1時間飛ばすのに、約200本の松根を必要とするというのだから、まったくもって効率が悪い。


「松根油緊急増産運動」ポスター







あらためて千秋公園内の松脂採取痕を観察してみると、その位置が極めて低い物件が多いことに気づく。

松脂を含めた松根油の採取に動員されたのは、戦地におもむいた壮年を除く、老人・女性・児童たち。なかでも比較的軽作業である松脂の採取に、国民学校の児童が多く動員された。

先の新聞記事にある、「まず松の幹に眼の高さ程の個所から根元少し上の部分まで六、七十センチの間を幹の廻り三分の二位の幅で表面の樹皮を剥ぎとり」の「眼の高さ程」を考慮すれば、これらの低位置に傷痕を残す松の木から、国民学校の低学年、もしくは未就学の幼い子どもらの手により、松脂が採取されたことを想像させる。



さて、冒頭の写真に写る婦人は、樹皮を剥がずにそのまま V字形の傷を入れている。このような採取方法もあったのかと、千秋公園の松の木を観察すると、その形は樹木の生長で膨張しているものの、かつて斜めに傷を入れたと思われる痕跡を残す松を、わずかであるが確認することができた。



昭和20年4月から8月にかけて、43万人を超える労働者を動員して生産された松根油は 256.940バレル。しかし、本格的な航空燃料精製を前に、陸軍岩国燃料廠は空襲により壊滅、海軍四日市燃料廠の竣工前に終戦を迎えたため、実戦で使用されることはなかったという。

米国による石油禁輸が大東亜戦争突入の契機になったことを考えると、この大戦は燃料をめぐる戦争であり、その末期の「松根油増産計画」は、原油輸入ルートを絶たれて溺れんとする瀬戸際の、藁をもつかまんとあえぐ国家による、切羽詰まった哀しき作戦であった。

終戦後、余った松根油は漁船・トラクターなどの燃料として活用、岩国と四日市の燃料廠のプラントおよび跡地は、石油コンビナートとなり、戦後の復興から高度経済成長の時代を支える基盤となった。



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