秋田広小路モノレール計画・昭和30年代

トッパンの愛児えほん『はしれのりもの』(昭和30年代発行)より
昭和41年の市電(秋田市営電車)廃止を前にした昭和39年(1964)、市電に変わる交通網として、秋田市内のデパート業界間でモノレールを導入する計画が持ちあがった。
「協働社ビル」の浅利社長と「新秋田ビル」の北林社長が中心となって構想した計画は、秋田駅二階のステーションデパート・木内・協働社・新秋田ビル・本金のそれぞれの屋上をモノレールで結び、駅前から広小路・大町を一大ショッピングセンターにし、三、四年後には市内の商店街を空の交通で結び、将来的には市内を縦横に走らせようというもの。

淡色文字は昭和40年以降の商業施設
しかし、支柱を建てるスペースの確保が難しく、上空をさえぎって走るモノレールは、住宅や商業施設の密集した市街地には適さない交通機関。秋田空港が新屋から雄和に移転した80年代に、市街地と新空港を結ぶ新交通システムとして、モノレールを導入する計画があったが、同様に実現するには至らなかった。

木内デパート屋上から大町方向を望む・昭和三十年代
さいわい橋をわたると「秋田名店街」入口、大町通りにそびえる本金タワー。まだ「新秋田ビル」は建っていない。

ランドマーク秋田(旧協働社ビル)から新秋田ビル、大町公園橋 06.03
広小路の突きあたりから旭川を渡り川反に抜ける「さいわい橋」(現・大町公園橋)はもともと、昭和36年(1961)、先代の辻兵吉が「秋田名店街」(現・AD)をつくったとき、広小路と「秋田名店街」を短距離で結ぶために架けられた私設橋で、現在よりも少し川下(南側)に位置し橋幅が狭かった。昭和40年(1965)、橋を渡った場所に「新秋田ビル」竣工、現在はブティックが入居するビル一階部分に開けられた通路を抜けると、正面に「秋田名店街」の入口があった。
「新秋田ビル」オープン当時の入居者は、地階に「茶の間」「鳥吉」「なぎ」「銀寿し」「りんでん」など飲食店。一階のファッションフロアに「杉」「ササキ」「ミウラ」。三・四階「農林漁業金融公庫」。四階「日立製作所」「住友火災海上」「千葉歯科医院」。五階「高千穂交易」「北林道場」(柔道場のちに日本拳法道場)。
現在は地階に「関西割烹・三四郎」、一階のブティック、二階に「ほくと商事」など、上階はほとんど空き部屋のようだ。
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