昭和44年・秋田テレビ開局のころ
昭和44年(1969)10月1日、秋田で二番目の民放放送局 AKT 秋田テレビ開局。朝8時、秋田市上空に響くノロシの音と同時に放送開始。
10月13日、秋田県立体育館にて「放送開始記念ミュージックフェスティバル」開催。八橋本町の秋田テレビ前を出発し、山王大通り・通町・広小路を経由し県民会館前まで行進する昼の記念パレードに参加したのは、陸上自衛隊中央音楽隊、海上自衛隊大湊基地音楽隊、秋田市内の中・高校ブラスバンドなどで編成した楽隊、テレビメーカー各社のデコレーションカーが連なり、ミス秋田おばこが花を添えた。
12月1日本放送開始、12月3日、秋田市立体育館において開局記念番組「ダイヤモンドグローブ」を収録。全日本ジュニアライト級チャンピオン 東海林博(米倉・横手市出身)と、世界ジュニアライト級第8位 石山六郎(極東・西馬音内出身)が対戦するメインイベントは、同日夜10時からフジテレビのネット局で全国放送された。

昭和44年・新聞広告
秋田テレビは県内初の UHF 局、既存の VHF 専用テレビでは受信できない。秋田テレビでは開局を前に県内の家電店とタイアップして、グァム島招待旅行をはじめ豪華賞品が当たる UHF コンバーター普及セールを展開。


無電テレビ工業 昭和44年・新聞広告
UHF ・ VHF 両波が受信できるオールチャンネルテレビの当時の表示価格は、19型カラーが約18万円、13型カラーで約12万円、17型白黒でも約5万円。実売価格は大幅に値引きされるものの、公務員の初任給が27.000円ほどの時代、かなりの高額商品であり、さらに専用のアンテナも用意しなければ受信できない。
アンテナを含めたコンバーターの価格は、単チャンネル型の普及品で約5千円、オールチャンネル型が7千円から1万2千円ほど。ほとんどの家庭でコンバーターとアンテナを購入し、これを機に白黒テレビから大量生産で安くなりはじめた、オールチャンネルのカラーテレビに買い換える家庭も少なくはなく、家電販売店はこの時期、秋田テレビ開局景気の恩恵を受けた。

サンヨー UHF コンバーター UH-55R

昭和44年・新聞広告
左・金座街まるさ電機
右・ナショナル・パナカラー内蔵用 UHF コンバーター
昭和40年代の大型テレビのデザインは、キャビネットに天然材または木目調をあしらった豪華な家具調が主流。その家具調テレビブームの火付け役になったのが、松下電器が昭和40年(1965)に発売したナショナル白黒テレビ「嵯峨」19型 72.500円。同年のグッドデザイン賞を受賞、同社のロングセラーシリーズになる「嵯峨」は、40年代の国産大型テレビの基本デザインとなった。

ナショナル「嵯峨」
「嵯峨」の成功をきっかけに各メーカーから、「高雄・三菱電機」「歓(よろこび)・シャープ」「王座・東芝」「金剛・ゼネラル」など、和風ネーミングで同様のコンセプト・デザインの家具調テレビが相ついで発売された。
昭和30年代、庶民のあこがれの的であった電化製品の「三種の神器」は「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」。いざなぎ景気にわいた昭和40年代は「カラーテレビ・クーラー・カー」が新三種の神器といわれ、頭文字を取って「3C」とも呼ばれた。そんな高度経済成長期に開局した秋田テレビも今年で40周年。転じて平成不況の今、明るい未来が確かに実感されたあのころが、遠くはるかな夢のように感じられる。
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