川のない橋「牛島橋」界隈を歩く

まだ冬の装いの太平山の山並みを背景に、早春の太平川の土手でザッコ(雑魚)を釣る太公望たち。前回のエントリーでとりあげた『保存版 ふるさと秋田市』に掲載された写真である。
まだ高層の建物もなく、堤防に桜が植樹される前なので、空が広く太平山の眺望もすこぶる良い。この界隈で生まれ育ったものにとって、太平川から望む太平山はなつかしき原風景。おりふし、東の空に目をやると、四季の彩りを装う太平の峰が、遊ぶ子らを見守るように、いつもたおやかな姿をみせていた。

添えられたキャプションに
太平川下流の太公望(太平・昭和34年) 太平川(左)と猿田川(右)の合流点。‥‥後略‥‥とあるが、これは誤解。どうもこの写真集には間違いが目立つ。
右手に牛島の「寳袋院」(ほうたいいん)本堂が確認できることから、正確な撮影地点は「太平川橋」の下流。太平川と猿田川の合流点はもっと下流にあり、周囲の風景も全く異なっている。
のちほど説明するが、わけがあって現在は全く同じポイントからの撮影はできない。ほぼ同じ場所から撮影したのが以下の画像。右手に見えるお寺が久保田三十三番札所巡礼・七番札所「寳袋院」、その向こうの橋が「太平川橋」。

10.01
うねうねと蛇行する太平川下流域は水害多発地点、そのため戦前から戦後にかけて河川の改修が行われ、「太平川橋」周辺の河道も、戦後の河川改修でその姿を大きく変えた。まずは河川改修前の地図を。

ベースにしたのは昭和24年発行『秋田市街図』。青色でマーキングした部分が大きく蛇行していた河道をなめらかに改修するために堀替えた新河道、ここに現在の「太平川橋」が新たに架設される。
「太平川橋」の下流にかつて、牛島駅と川口境の工場地帯を結ぶ、専用引き込線の鉄橋が存在した。太平山と太平川を捉える絶好の撮影ポイントであった、その鉄橋の上から東方を撮影したのが冒頭の写真。そこには今も橋脚の痕跡が残り、ときおり水鳥が羽を休めている。

専用引き込線・太平川鉄橋跡 10.01
旧河道に架かっていた「お東橋」が撤去され、その周辺が最初に埋め立てられ、残りの旧河道はしばらく残っていた。冒頭の写真はその時代に撮影されたもの。
たそがれどき、木々が鬱蒼と茂る旧牛島橋から旧河道を見下ろすと、流れを止めた川は暗くよどみ、投棄されたゴミが水面が浮ぶ眺めが、子ども心に不気味に感じら、後年の一時期、その光景がよく夢に現れた。
残っていた旧河道もやがて埋め立てられ、昭和39年、牛島橋の旧河道上流部分に U字形の児童公園「楢山末無町街区公園」開設、下流部分も小公園に。

牛島橋跡から旧河道上流(児童公園)を見下ろす 09.06

09.06

牛島橋跡から旧河道下流を望む 09.06
雄物川水運で穀物・縄・薪などが荷揚げされた船着き場があった場所。今は橋と同じ高さに埋め立てられている。

蛇行した緑地帯が旧河道

牛島橋跡から牛島方面を望む 09.06

牛島橋通り(登町方面を望む)08.11
いにしえの国道・羽州街道に架かっていた「牛島橋」は久保田城下と河辺郡牛島村を結ぶ境界の橋、佐竹氏の参勤交代の際、一行はこの道を通って牛島に入り、御茶屋橋のたもとで茶を一服してから江戸へ向かうのが恒例であった。

お東橋跡より太平川橋を望む 10.01
太平川で行き止まりであった楢山南新町下丁に、大正末期、牛島に通じる「お東橋」架設。「お東」の名は町内に佐竹東家の下屋敷(別邸)があったことに由来し、「お東町」とも呼ばれた町内には東家の祖・佐竹義久をまつる東館神社が現存する。

お東橋跡付近より太平川橋と新河道を望む 07.05
まだ木橋だった昭和30年代、橋の上から雄物川の花火がよく見えた。この橋の正式名称が「太平川橋」と知ったのは比較的最近のことで、自分たちはずっと「牛島橋」と呼んでいた。すでに旧牛島橋は橋ではなくなり、牛島のメインストリートに架かる橋だから、今は「牛島橋」の名がふさわしいと思う。

引き込線鉄橋跡より太平山を望む 10.01

牛島駅から川口境へ延びる専用引き込線とその界隈については次回に。
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