川口境の工業地帯と牛島引込線と・・・

牛島引込線・太平川鉄橋跡 10.01
過去のエントリーでふれたように、かつて牛島駅から秋田脳病院(現・秋田回生会病院)の脇を通り、太平川を渡り、楢山川口境の工業地帯まで、貨物列車で物資を運ぶ専用引込線(赤色マーキング)が延びていた。

秋田市街図・昭和24年
引込線の終点は、太平川と旭川にはさまれた市内最古の工業地帯。河川に面した川口は古くから雄物川水運による木材の陸揚げ地で、木材業・製材業が栄えた場所。「秋田瓦斯株式会社」(明治44年創業、現・東部ガス)が創業地として川口境を選んだのも、ガスを造るための石炭の運搬に船便を考慮した結果であった。

旭川沿い、川口の材木置場 10.01
久保田城下の南端に位置し、旭川に面して藩の材木場・籾蔵が置かれ、原野と畑が広がっていたこの地の旭川沿いに、明治34年「秋田製材合資会社」が、能代を東洋一の製材王国に育てあげた井坂直幹(水戸出身)と地元資本の協力により資本金5万円で創設、2万3千坪の敷地に、工場、機械室などが建ちならぶ、秋田市内最大規模の工場であった。

書籍広告・明治40年
マークは「◇に秋」、製品にこの焼印が押されて出荷された。住所は秋田市亀ノ町外張南新町、南隣の現東部ガスの場所は川口境。
明治40年、井坂直幹の経営による「能代挽材株式会社」「秋田製材合資会社」「能代材木株式会社」の三社が合併して「秋田木材株式会社」(アキモク)設立。本社を能代に置き、秋田市の工場は秋田支店となる。

秋田木材株式会社秋田支店
右手に旭川と運搬用の川舟。
明治44年、「秋田木材株式会社」は「秋田瓦斯株式会社」(現・東部ガス)設立資本金の半額を引き受け、瓦斯事業に参入。

秋田瓦斯株式会社・川口境
大正4年、「秋田木材株式会社」秋田支店廃止、秋木が出資する「菱秋商店」として再出発。大正8年、「菱秋商店」「進藤挽材精米工場」「鈴木製材工場」を合併、「秋田製板株式会社」を設立。

書籍広告 左・大正7年 右・大正11年
大正15年、「秋田木材株式会社」の電気事業部門を「北海道電灯株式会社」に譲渡、川口境、現在の「秋田サティ」の地に「秋田火力発電所」を新設。同年「秋田瓦斯株式会社」も「北海道電灯株式会社」に吸収合併される。
昭和2年、「秋田製板株式会社」は原料木ならびに製材輸送のため、牛島駅と工場を結ぶ専用引込線を、工費12万7千円を投じて敷設。
昭和3年、「秋田製板株式会社」は財界不況の影響を受け「秋田木材株式会社」(アキモク)に製材権を譲渡。牛島引込線の名義を「秋田運輸倉庫株式会社」に変更。近隣工場の資材・製品を含めて、昭和6年には3万1千543トンの輸送量を記録。
昭和7年9月の新聞記事によれば、「秋田運輸倉庫株式会社」が自社所有の牛島引込線を鉄道省(国鉄)に買い上げてもらおうと、市当局や近隣の商工業者とともに陳情運動を展開するも、数日後「牛島駅引込線の買上は不可能化、但し今後の運動次第で一縷の光明はある」との見出しで、このときは失敗したことが報道されている。
牛島駅の昭和39年度の貨物記録に、東北肥料に向かう茨島引込線の記録があるが、牛島引込線についての記録がないのは、すでに廃線となっていたためだろうか。線路と鉄橋は昭和40年頃まで残っていたと思う。

秋田市街図・昭和24年
昭和24年当時の工場は「秋田製材合資会社」をはじめ「秋田県樽材」などの製材会社、「秋田製鋼」「東部ガス」など。昭和37年になると、「秋田製材」の跡地に「日本パーティクルボード」(昭和40年操業停止)、「秋田製鋼」が「秋田金属工業」と名を変え、引込線の終点のあたりに「日清製粉秋田荷扱所」の名がある。工場のすぐ近くにあって場所柄にぎわっていた銭湯が「石の湯」。
昭和10年頃から操業しているアキモク系の「秋田製鋼」に、昭和21年、秋田工高を卒業したばかりの土方巽(前衛舞踏家)が就職し、勤務のかたわら、市内のモダン・ ダンス研究所に通っていた。

昭和37年
国道13号線が走る古川添、今は「ラウンドワン」や「トイザらス」など大型施設が並ぶ卸町のあたりはまだ一面の田園。
「ゴミ投棄場」と記したあたりは河川改修で取り残された太平川の旧河道。沼となった河道跡の大きな窪地に、近所の住民たちが大正初期頃からゴミを捨て始める。
ゴミ捨て場の片隅に下鍛治町の佐金商店が焼却炉を建設、可燃ゴミを焼却炉で燃やし、かまどに残った灰はカリ肥料として販売した。最盛期は製造した肥料を船に積み込んで郡部に送ったものだという。戦後になって質の良い肥料が手に入るようになり衰退するが、肥料工場はしばらく操業をつづけ、焼却炉の高い煙突が、ゴミ捨て場のシンボルとして残っていた。
昭和の初め頃、秋田市が借地契約を結び、正式な市営ゴミ投棄場となる。以前はこのあたりも追廻(おいまわし)町内だったため「追廻ゴミ捨て場」と呼ばれ、近隣の工場からも鋳物カスなど不燃物が捨てられるようになる。
大東亜戦争中に金属不足におちいると、永い年月にわたって埋め立てられたゴミが掘りおこされ、金属類は戦争のために再利用された。戦後しばらくは金属類を拾い集め、ゴミ屋に売って内職をする近所の人たちも少なくはなく、捨てられたゴミのなかには貴重な古文書や美術骨董品のたぐいも少なからずあったようで、ある人はそんなゴミ捨て場の様相を、さながら「現代貝塚」と評していた。
戦後の高度成長期には一日8トンものゴミが運び込まれるようになり、投棄量の限界を超えた昭和39年に閉鎖、2万3千平方メートル余りの跡地は宅地として整地、若草団地の名で秋田市都市建設公社から分譲される。
このあたりにはあまり近寄らないようにと親に言われていたが、引込線と工場を結ぶトロッコや広い河原のある界隈は、子どもらにとってとても魅力的な遊び場であった。
東部ガスの近くに大きめの水路が流れていた。その水路に架かる小橋の向こうに住む同級生の話によれば、水路から水死体が上がったのだが、片目が見つからず、夜中に橋を通ると、ときおり片目の幽霊や空中に漂う目玉が目撃されるのだと、まことしやかに話していたが、そんなたわいのない話も現実味をおびて聞こえるほどの闇深き場所でもあった。

界隈の工場のうち、今も残るのは東部ガスのみ。秋田金属工業の跡は「秋田サティ」(平成7年(1995)開業)、明治時代からの製材工場の跡地にはマンションなど集合住宅が建つ。

東部ガス 10.01

秋田サティ 10.01
ゴミ捨て場は住宅街へと変容、昭和55年(1980)、有楽町通りから登町を経て国道13号線の卸団地に抜ける中通牛島線が完工、大型ショッピングセンターも誕生、往年のうらさみしき街外れの風情をしのぶことができるのは、東部ガスの球形ガスホルダーだけだが、太平川・旭川・猿田川の三つの河川の交わる地形がかもしだす、特有の雰囲気はいまも変わらない。

旧追廻ゴミ捨て場付近 10.01

左手に国道沿いの「ラウンドワン」、右手に旧追廻ゴミ捨て場 10.01

旧追廻ゴミ捨て場付近から猿田川と太平川の合流点 10.01
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元川尻町川口境→楢山川口境
追い廻し 懐かしいですね。 元川尻町川口境→楢山川口境
(築山小→南中)当時、母が秋田木材に勤めており、私は川口保育所に預けられていたこともあり、この界隈は思い出に溢れていますね、今はこんなに変わってしまわれたのですね、もう四半世紀もみておりませんから 当然と言ってしまえば当然ですが ・・・・・・・・