団欒の群像・秋田駅前モニュメント
阿部米蔵によるパブリックアート・その2


阿部米蔵「団欒の群像」昭和36年(1961)
秋田大学教官として在籍した昭和20年代末から高度経済成長期にかけて、県内の広場・公園・街路などの公共空間や校庭に、数多くの作品を残した彫刻家・阿部米蔵氏によるモニュメント。
昭和36年(1961)、秋田ライオンズクラブの発足を記念し、落成したばかりの秋田民衆駅(旧秋田駅)前に建立後、市に寄贈された「団欒の群像」は、数ある阿部氏のパブリックアートのなかで最も印象的なブロンズ作品で、初期野外展示作品の代表作のひとつ。その制作意図を、作者が魁新報に寄稿した文章が、哲学的で難解ながらも面白い。

旧秋田駅と「団欒の群像」

オープン当時のヨーカドーと「団欒の群像」昭和55年(1980)
当所は約2.5メートルの高い台座で、現在の「東西連絡自由通路・ぽぽろーど」直下にあったが、新秋田駅建設の前後に南寄りの現在地に移動、変化した周囲の環境に合わせて、台座も低く造り直されて今に至る。


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阿部米蔵「団欒の群像」昭和36年(1961)
秋田大学教官として在籍した昭和20年代末から高度経済成長期にかけて、県内の広場・公園・街路などの公共空間や校庭に、数多くの作品を残した彫刻家・阿部米蔵氏によるモニュメント。
昭和36年(1961)、秋田ライオンズクラブの発足を記念し、落成したばかりの秋田民衆駅(旧秋田駅)前に建立後、市に寄贈された「団欒の群像」は、数ある阿部氏のパブリックアートのなかで最も印象的なブロンズ作品で、初期野外展示作品の代表作のひとつ。その制作意図を、作者が魁新報に寄稿した文章が、哲学的で難解ながらも面白い。
‥‥前略‥‥
およそ広場という空間は単に計画者の意志によって作られるものではなく、時代に生きるあらゆる階層の人々の背後にあって、生命をあずかる不可視の存在が人間計画と一つにとけて形作られる都市の大きな動的なうず巻であり、したがってものすごい流動性をもつことは当然である。
制作を主体として生きる限りある人間が無限な実在に預かるみちは、感性を主体ととする主観の堂奥に至らなければならない。感性的な主体はあらゆる存在の根源へとかえっていく。人はかくして有限な存在でありながら無限なる実在に預かることが可能であろう。それは全宇宙を貫く不可視な力への思慕である。
‥‥中略‥‥
知や徳は人間世界だけのもの、慈愛と光は全生物を貫き、全宇宙を動かす力であり、この慈愛と光の存ずるところ実在は存ずる。
‥‥中略‥‥
駅前広場に感じられる不可視なうず巻はそれ自体凝集力と放散する力を同時に使途するが、分離と散乱は本来の習性ではない。存在は結合の機会をねらっている・・・。結合しつつある。精神は存在をして総体たらしめる総合力であり、その最も原初的純粋な多くの人々に共通の形相は、家族のフォルムである。家族のフォルムの原初形態は、あらゆるものの分離と散乱にあるものを、生きた一つの結合体にまでもたらす慈愛と光を内に包んでいる。
家族は単なる肉体の連続ではなく、それを通して肉体を和解し、肉体を支配しつつそこにいっそうの高い創造過程を生きんとするものである。民衆駅の乗降客、観光団、通勤通学の人々の原初的形態として感じられるフォルムを、団らんの群像の形態で考えた。裸婦は東北面に、そして童児は東南の方向を選び、若い両性にみつめられながら、生成を楽しむ形姿、原初的家族の団らんは、奈良薬師寺東塔相輪の構成に教えられた。
‥‥後略‥‥『ふたつの群像』阿部米蔵 昭和36年「秋田魁新報」より

旧秋田駅と「団欒の群像」

オープン当時のヨーカドーと「団欒の群像」昭和55年(1980)
当所は約2.5メートルの高い台座で、現在の「東西連絡自由通路・ぽぽろーど」直下にあったが、新秋田駅建設の前後に南寄りの現在地に移動、変化した周囲の環境に合わせて、台座も低く造り直されて今に至る。


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