川反に土手があったころ

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「秋田 旭川の清流」佐藤写真館発行
昭和初期ころの絵葉書

川反一丁目橋から二丁目橋を撮影。
カラーフイルムなど無い時代、職人がモノクロ写真から三色版を製版した人工着色印刷。

東側(左)には佐竹氏の町割のとき、旭川の堀替で出た土砂を積み上げて形成した土手が、この当時は通町橋から五丁目橋まで断続的に残っていた。その上には松と桜の並木が続き、桜の季節は見事であったという。土手の東側の通りを土手長町というのも、長い土手が続いていたための命名。

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川反側には柳が植えられ、その向こうには白い二丁目橋。この橋は大正十一年竣工の県内初のコンクリート橋で、その風情は「秋田のミラボオ橋」とも称されたが、昭和四十年代、山王大通りの拡張にともない撤去される。旭川には二艘の小舟が何かを運んでいる。かつては雄物川流域の米、炭などの物資が舟で運ばれ、旭川の川端に陸あげされた。

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現在の同地点

戦後に架けられた幸橋(現・大町公園橋)で二丁目橋が隠れている。その向こうでに、こんもりと茂る樹木は、那波家の防火林。

一丁目橋と二丁目橋の間、広小路からの突当りに、幸(さいわい)橋ができたのは昭和三十六年。その年に誕生した秋田名店街への通行の便のために架けられた私設橋だった。

昭和六十二年、幸橋の少し上流に架け替えられた大町公園橋が開通し、秋田名店街および本金の跡地に、ショッピング街(AD)とワシントンホテルが入った新秋田大町ビルがオープンする。

ミドリの戦車

護岸工事さは、それなりに理由あったべども、むがしみでぐ
河原さ降りでいがえだ頃が、ちょっとばりなつかしもんだす。

2005.04.28 Thu 23:24