Y字路に謎の石柱・石敢當

川端たぬき

街角の文化財・魔除けの「石敢當」その一

●ゴミ置き場の陰で・・・・・・


理髪館のあるY字路 2004.05

以前記事にした、旧楢山桝取町の「理髪館のあるY字路」の、三叉路が分岐する地点に設けられたゴミ置き場を裏から覗くと、廃材や石にまぎれて、高さ40cmほどの石柱が鎮座している。


2007.12

それは自動車の衝突を防ぐため、Y字路や小路の角などに置かれた「車除け石」にも似ている。しかし、これが建てられた幕末から明治期にかけて、自動車などあるわけもなく、それならば何を目的としたものかというと、「車除けの石」ならぬ「魔除け」のために建立された「石敢當」(いしがんとう・せきがんとう)と呼ばれる石柱なのだ。


所在地・南通宮田(旧楢山桝取町)
表記・敢當石  高さ・約44cm
撮影・2003.11

正面から見ると「敢當石」の文字を確認できるのだが、現在は上の画像のように金網とネットでさえぎられてしまい、まともに見ることができない。

「石敢當」または「敢當石」などの文字が刻まれた石柱が建立された場所は、丁字路、Y字路、曲がり角などの突き当たり。災厄、病魔などの魔物は道路を人が歩むように進み、突き当たりに出会っても曲がらずに直進をつづけ、人家があれば侵入すると信じられていたらしく、そのような場所に災厄を防ぐことを目的として建立され、秋田では「ウケイシ」(受け石)とも呼ばれていた。

もともとは中国を起源とする道教がもたらした風水の風習で、江戸中期のころ日本に入り、“石に神霊が宿る”とする日本古来の信仰とあいまって定着。

中国、台湾、シンガポール、日本などに分布し、国内では沖縄がもっとも多く、今も増殖しつづけているので把握はできないが、その数一万基以上といわれている。石材店や表札屋が「石敢當」を制作し、新築時に施工業者がサービスとして設置する場合もあり、素材は石に限らず、プラスチック製パネルやシールなども用いられるほど、魔除けの獅子・シーサーとともに、沖縄では「石敢當」の風習がいまだに色濃く息づいているのだ。

沖縄、鹿児島、宮崎が県別現存数のトップ3。それに次ぐ第四位が秋田の約三十基。そのほとんどが秋田市内にあり、なかでも旭川から東側に位置する内町(うちまち)の、中級・下級武士が住んだ楢山、南通築地地区に集中している。同じく武家屋敷の保戸野地区にも多かったが、屋内に保管されているものを除き、今は野外に現存しない。

秋田に限っていえば、建立年代は幕末から明治期までだが、なかには近年沖縄から導入された新しいものも数件ある。

大正期の調査で、市内に四十七基を記録した「石敢當」は、住宅の新築、板塀からブロック塀への転換、道路整備などで一時は二十基ほどに激減。しかしその後、道路工事で地中から発見された物件・屋内に保管されていたものを再建した物件・近年になって新たに建立された物件なども含めて、現在は約三十基が確認され、その他に中通と築地にかつて存在した二基が秋田県立博物館に保管されている。


●なぜ秋田市に多いのか

中国と直接交流があった沖縄や九州地区に「石敢當」が集中しているのは納得できる。しかし、なぜ遠く離れた北国の秋田市にこんなにも多いのか、はたしてどんな想いをこめて「石敢當」を建立したのかと、辻々に建つそれらを観察する者は、さまざまに思いを巡らせてきた。その疑問に対して、元国立公文書館長で石敢當研究者の小玉正任(秋田出身)がひとつの仮説を発表した。
 市内の旧武家屋敷に石敢當が多く造立されていることについて、筆者は次のような仮説をたててみた。
 藩が藩校の教授として招いた儒学者の中に、石敢當についてとくに造詣の深い学者がいて、折にふれ石敢當の話をしたので、受講した藩内の若い武士の頭にそのことがうえつけられ、これらの人々、あるいはその話を伝え聞いた子弟・邸に出入りしたものが後年、多発した洪水や伝染病に困って石敢當を立てたのではないかと考えたのである。そしてこの秋田藩に出仕した学者は大窪詩仏ではなかろうか、と。‥‥中略‥‥ではどうして秋田の武家屋敷にかくも多くの石敢當が立てられたのか、それは、先述の詩仏による教授の結果、藩士の頭の中に石敢當というものが知識とてうえつけられた。だが、これだけでは大量に立てることには結びつかない。そのための別の要因が発生したと考えられる。それは天保四年に大飢饉があり、明治には大洪水(十一年、二十五年)、俵屋火事(十九年)、コレラ・チフス・天然痘(十八、十九、二十、二十一年)と災害、疫病が多発し甚大な被害をうけた。このことがきっかけとなり、強力な災厄防護・厄除けを求めて、知識として眠っていた石敢當造立を武家屋敷の当主たちが思いつき、造立ブームがおきたのではなかろうか。‥‥後略‥‥
小玉正任『民俗信仰 日本の石敢當』慶友社 2004年 より
秋田市に於ける「石敢當」の謎を解く説得力のある仮説である。謎解きのキーマンとなった人物は、江戸時代後期の儒学者で漢詩人・大窪詩仏(1767~1837)。久保田藩校・明徳館で教授を務めたこともある詩仏は「石敢當」についての造詣が深かったらしく、長野県南佐久郡佐久穂町に詩仏の書を刻んだ、高さ150cmの「石敢當」が残っている。(下記関連リンクに写真あり)

秋田市内に残る「石敢當」は丁字路に多く、三叉路に現存するのはこの物件のみ。近年沖縄からもたらされたものを除く「石敢當」は、後世まで保存されるべき文化財的価値の高いものだが、このようにないがしろにされている物件も少なくはない。

しかしこれも考えようで、人目に付く場所で邪魔者扱いを受け、他物件のように撤去の憂き目をみるよりも、物陰で人知れず存在できるこの場所は、保存を考慮すればさして悪い環境ではなく、少なくともこの場所がゴミ捨て場の役割を終えるまで、Y字路に建つ「石敢當」は安泰なわけである。

理髪館の消えたY字路・楢山桝取町
2014.12 理髪館解体と石敢當の露出




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関連リンク

石敢當 - Wikipedia

NPO信州ふるさとづくり応援団 東信支部 | 信州の石敢當
大家詩仏の書を刻んだ石敢當

大窪詩仏 - Wikipedia

大森林造 大窪詩仏の詩と書をあじわう - hc_storia

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渡名喜島の石敢當

沖縄の石敢當

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