ドトリバ踏切のひみつ・金照寺山麓防空壕
▲金照寺境内 08.05
嘉永四年(1627)の「八百萬神(やおよろずのかみ)祈願碑」が入口に建つ金照寺境内は、六月の愛宕神社例祭の露店が並んだ想い出深き場所。境内を分岐する Y字路の左手を進み、信号のない踏切(現在は封鎖)を渡った山麓に愛宕神社が鎮座する。 右手の小道が古くからの登山口。もうひとつの登山口、旧「金照閣」前の温泉坂は昭和初期に造成された新道である。
登山口に歩を進めると、間もなく羽越本線「土取場(どとりば)踏切」にぶつかる。なにか心惹かれるドトリバという響き。
土取場踏切 08.05
「土取場」は文字通り、土砂や粘土を採取した「土取り場」を示す地名。金照寺山麓の場合は正式な地名ではないが、東北地方を中心に全国に数ヶ所「土取場」の地名が現存する。
土取場踏切のむこうに、昔は一帯が土取り場であったことを物語る、崖崩れを防ぐためコンクリート擁壁工事が施された崖がみえる。
擁壁工事が行われる前、この崖は近所の子どもらにとって格好の遊び場であった。度胸比べに急勾配の崖を登ったものの、途中で登ることも降りることもままなくなり、ベソをかきながら兄に助けられたことや、夏の夜、大東亜戦争中に掘られた三つの防空壕を探検したことなどを思い出す。崖の下には乳牛を飼う家があった。
▲土取り場と防空壕
土取場踏切を渡って金照寺山へ登る坂を八幡坂(はちまんざか)という。佐竹氏の氏神(うじがみ)八幡神社(現・八幡秋田神社)祭典のとき、金照寺山の七つ森まで登った御神輿の御休場が、坂の西側にあったことにちなんで八幡坂と名づけられた。
▲八幡坂 07.04
坂の右下(南側)が防空壕があった土取り場跡の崖。昭和30年代は舗装されていない八幡坂をチョロチョロと湧き水が流れ、サワガニだったろうか小さな赤い蟹が生息していた。
▲ 八幡坂より市街地を望む 1967
昭和五年の『秋田魁新報』に、土取り場の土を取りすぎて、八幡坂登山口が馬の背のように狭隘となり、小学生が転落する事故もあったことから、地区住民が協力して、長さ百間(181.8 m)、幅二間(3.636 m)余りの坂道を造成したという、いかに大量の土が採取されたかがうかがえる記事がある。
▲楢山愛宕下中町より土取り場跡 10.06
▲金照閣踏切より土取り場跡(南側) 10.06
土取り場となる前は線路間際まで山が迫っていたと想像される。土取り場の上は住宅地になった。
金照寺山から採取され、馬車や橇で運ばれた粘土質の土は、宅地造成(埋立)、建築の基礎・土壁・土間の三和土(たたき)などの他に、陶器用の陶土としても使われた。
明治四年からの短期間、南秋田郡楢山村の岩取場を徒刑場に指定、秋田監獄(現・秋田刑務所)に収監された軽犯罪者を使役した事が記録されているが、楢山で岩石を採掘した記録が他にみつからないことから、この「岩取場」は金照寺山の土取り場のことと思われる。
罪人たちには浅黄色の袢纏を着せ、手錠または足錠を施し、金照寺山の下川(太平川)に沿った場所に設けた「寄せ場」と称した小屋に住まわせて使役したという。
▲金照寺山と太平川 09.04