二〇世紀版「金照寺山」案内記

川端たぬき


太平川より百石橋と金照寺山を望む 05.05

●金照寺山縁起

金照寺山は楢の木が多く、一時期は楢の伐採地でもあったことから、古くは「楢山」と呼ばれていた。この「楢山」を起源とする地名「楢山村」は天正十九年(1591)の文書にその名が残るほどの古い地名。

慶長七年(1602)、八幡坂の北側平地のあたりに、佐竹氏の転封にともない常陸から「天徳寺」(佐竹家菩提寺)が移される。以降「楢山」は「天徳寺山」と呼ばれるようになるが、寛永元年(1624)「天徳寺」は総門を残して全焼、その後現在の泉へ移転再建される。

明暦年間(1655-7)、焼失した「天徳寺」跡地に角館から真言宗「金照寺」を移し、佐竹氏の祈願所としたことにちなみ今度は「金照寺山」の名が付けられた。この「金照寺」も明治元年(1868)の火災により焼失、その後、神仏分離で廃寺に。「金照寺」の住職が祭主を務めていたのが「愛宕神社」。現在の「金照寺」は楢山三枚橋にあった末寺の正覚院を、「金照寺」の名を惜しみ、昭和になって移転改称したものという。


金照寺境内 08.05

明治末期、「金照寺山」を公園として整備する計画を時の県知事が推進、千秋公園を設計した公園設計のパイオニア・長岡安平に設計を依頼するが、さまざまな障害がかさなり結局計画は頓挫。長岡の手による「金照寺山公園」設計図がどこかに保存されているはず。


●封鎖されたもうひとつの一つ森

「金照寺山」といえば「一つ森公園」の通称でおなじみの、金照寺山東部公園を連想する人が多いと思うが、昭和61年に「一つ森公園」が開園する以前は、奥羽本線の西側が中心地で、東側は「裏山」や「向かい山」と呼ばれた未開の地であった。

そのころ「一つ森」の名で親しまれていたのは、冒頭の画像に見える電波塔のある標高39メートルの台地。太平川を眼下に市街地、遠く男鹿半島を一望におさめる見晴らしの良い丘だったが、昭和50年、国鉄が「一つ森」にマイクロ回線用の電波塔と無線中継所を建設、周囲は金網で囲まれ、想い出の場所は永久に封鎖されてしまう。

丘の中央に盛り土がひとつあったことから「一つ森(盛)」と名付けられたようだが、その墳丘状の盛り土が古墳の可能性があったため、中継所の工事を前にして発掘調査を実施。その結果、建物の形跡が見つかったほか、数枚の寛永通宝、江戸期の陶器の破片などが発掘され、人工的な地形であることが確認されたものの、古墳をしめす証拠は発見されなかった。


ソフトバンクテレコム(株)金照寺無線中継所 10.06


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●金照寺山頂上・七つ森


七つ森より太平山を望む 10.06

古くから五月の節句には、市街に点在する鯉のぼりを眺めながら宴を開く人々でにぎわった、標高56メートルの「金照寺山」頂上「七つ森」。山伏(修験者)の墓と伝えられる「七つの盛り土」があることから「七つ盛り」=「七つ森」と呼ばれ、古い資料には「山伏塚」の名がみえる。


七つ森 10.06

南方から西方にかけての眺望がとくに良く、放課後や休日には子どもらの声が響き、四季を問わずにぎわいをみせていた「七つ森」界隈も、裏山に「一つ森公園」が開園したことも影響して、今では休日でも人影もない。周囲には住宅もずいぶん増えて、繁茂した木々が眺望を妨げ、市民の散策地として親しまれた昔の面影はない。


七つ森 昭和40年代中期


七つ森 昭和40年代中期


七つ森 昭和40年代中期


七つ森・なべっこ遠足(築山小学校) 昭和30年代


七つ森より裏山を望む 昭和40年代中期

カップルの向こうの白い崖が、奥羽線(明治35年開通)の工事により削られた裏山(現・一つ森公園)の岩肌。


秋田駅より金照寺山を望む 10.07

左(東)が一つ森公園のある裏山、奥羽線をはさんだ右(西)に「七つ森」がある。もともと連続したひとつの山だったが、奥羽線の開通で分断され現在の山容になった。


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●富士見台・大平のスキー場・城南中学校


富士見台・登り口の三十三番観音 10.06


富士見台・三十三番観音 07.04

「七つ森」の南側の丘を「富士見台」というのは、出羽富士(鳥海山)がよく見えたことからの命名だろう。

「富士見台」の南が「大平」(おおひら)。夏は芝生の原、冬はA級スキー場として人をあつめたこの丘をならして、昭和41年、上北手中・仁井田中・四ッ小屋中の三校を統合した城南中学校創立。

「富士見台」にある札打ちの三十三番観音像(十一体)のうちの何体かは、もともと大平(おおひら)にあって、校舎の造成のために移設したもの。開校して間もなく、四十代の教員が死亡、病魔に冒される教員もあいつぎ、学校を建設した業者が倒産と、不可解な不幸がかさなるのは、観音様を移動した祟りではないかと噂されたという。しかし、昭和10年代に建立された観音像の移動がこの現象の原因とはとても考えられない。

もしかして大平(おおひら)の丘は、七つ森のように古代の塚・墳墓のたぐいだったのではないだろうか。造成中に遺跡が発見された場合、法律上、工事を一旦止めて調査しなければならないが、竣工の遅れを嫌って届け出を怠ったり、無かったことにして事を進め、記録に残らない遺跡は数知れない。

父親の転勤で秋田に来て、城南中に通っていたタレントの「山瀬まみ」は、慣れない雪国での生活を、なにかの番組でおもしろおかしく語っていた。地吹雪舞う田圃道を歩きつづけ、やっと到着した丘の上の学校につづく坂道は、テカテカに凍結して登ることがままならず、冬の登校にはとにかく苦労したらしい。彼女のお父さんはその当時、森永製菓の社員で、広小路にあったマルサン内の森永レストランに勤務していたらしく、現在は湘南平塚でレストラン&バーを営んでいる。


富士見台より城南中学校を望む 昭和44年

現在は手前の旧グランドの場所に新校舎が建つ。


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●金照寺山南部の変遷


金照寺山南部 1962(昭和37年)

山のふもとおよび大平(おおひら)の西側の谷間・熊沢は一面の田圃。金照寺山を越え裏山(現・一つ森公園)へと向かう踏切を渡るとキリスト教墓地。奥羽線はまだ単線。


金照寺山南部 1975(昭和50年)

昭和41年、大平(おおひら)に城南中学校創立。
昭和46年、楢山城南新町に秋田運転区(現・秋田車両センター)開業。
昭和50年8月、奥羽線・四ツ小屋~秋田間複線化、裏山(現・一つ森公園)へ向かう踏切は跨線橋に。
田圃は次第に宅地化が進み、熊沢にも住宅が建ち始めた。


金照寺山南部 2006(平成18年)

平成4年、城南中学校新校舎落成。一面の田圃だった南部は完全に住宅街と変貌。岩取り場の上など、金照寺山も宅地化が進んでいる。熊沢も同様で、その奥にあった底無し沼も埋め立てられて宅地に。その上の傾斜地はかつて高井南茄園の農園だったが、この界隈のことはいずれまた。


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Comments 19

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まもりん

近所で育ちました。
大事な思い出の場所なので
今回の記事も永久保存版です!!
今はもうない生家も昔の写真にはしっかりと写っていて 
なつかしさとせつなさで胸がいっぱいになりました…

思い出の山が閑散としているのはとても淋しいですね。
にぎわっていた頃を同じように懐かしんでくれる人が
いると嬉しいです…

  • 2010/08/16 (Mon) 00:11
  • REPLY
川端たぬき

> 近所で育ちました。

自分の生家も近所なので、どこかですれ違ったかもしれないですね。
今後もノスタルヂアを共有する場所として気軽にコメントして下さい。

  • 2010/08/16 (Mon) 09:16
  • REPLY
kazu
底なし沼

懐かしいですね^^
あの辺は防空壕跡地とかも残っていたりと
なかなか趣というのか、異空間な感じがしてました。

その横を毎日走らされていましたが(苦笑)

川端たぬき
Re: 底なし沼

ほんとにおもむきのある面白い場所でしたね。
草に埋もれて近づくこともできませんが、
防空壕の痕跡がまだ残ってます。

  • 2010/08/16 (Mon) 20:05
  • REPLY
ガキ大将

防空壕跡や底なし沼(2つくらいだったか?)
よく遊びにいきました。
三十三観音探しなんかもやった記憶が懐かしいです。

  • 2010/08/17 (Tue) 16:48
  • REPLY
川端たぬき

> 防空壕跡や底なし沼(2つくらいだったか?)
> よく遊びにいきました。
> 三十三観音探しなんかもやった記憶が懐かしいです。

六月になると観音さんにお札が貼られて真っ白になるのが、子どもの頃は訳が分からず、とても不気味でした。

  • 2010/08/17 (Tue) 19:37
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あぶり
天徳寺

山門ではなく総門を残して、と聞いていますが。

  • 2010/08/17 (Tue) 23:02
  • REPLY
川端たぬき
Re: 天徳寺

> 山門ではなく総門を残して、と聞いていますが。

御指摘感謝。

  • 2010/08/17 (Tue) 23:42
  • REPLY
城南中OB

沼は3つあって奥から第一・第二・第三沼と名付けてました。第二ではイモリ(いわゆるアカっパラ)を取り、第三沼ではフナ釣りをしてました。底なしではなかったような・・・。第三沼のほとりに藤かアカシア(ニセアカシア?)の木があって6~7月はいい香りがしていたのを思い出します。

  • 2010/08/18 (Wed) 17:56
  • REPLY
川端たぬき

> 沼は3つあって奥から第一・第二・第三沼と名付けてました。第二ではイモリ(いわゆるアカっパラ)を取り、第三沼ではフナ釣りをしてました。底なしではなかったような・・・。第三沼のほとりに藤かアカシア(ニセアカシア?)の木があって6~7月はいい香りがしていたのを思い出します。

沼の樹上に白い泡状のモリアオガエルの卵を見た記憶があります。「底なし」はいわゆる通称ですからね。でも、埋め立てるときになかなか埋まらず苦労したとか。今でも六月頃になるとニセアカシアの甘い香りが山を包んでいます。藤の花も多かったですね。親父が金照寺山から採ってきた藤を庭に植えて、最初はなかなか花をつけなかったんですが、数年後には見事な花が咲きました。

  • 2010/08/18 (Wed) 19:55
  • REPLY
づづづ

子供の頃、宅地化が進む前は牛島小から城南坂あたりまで見通せていたのを思い出しました。懐かしいです。
冬の城南坂は本当に厳しかった。目の前で先生が滑って転んでしまいメガネを壊してしまったこと、憶えています。

  • 2010/08/19 (Thu) 20:52
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around30

城南中ができる前は、自衛隊の演習場だったと聞いたことがありますが、ガセネタですか?
また、金照寺山南部 1962(昭和37年)の航空写真の出典元を教えてください。

  • 2010/08/19 (Thu) 21:33
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川端たぬき

> 城南中ができる前は、自衛隊の演習場だったと聞いたことがありますが、ガセネタですか?
> また、金照寺山南部 1962(昭和37年)の航空写真の出典元を教えてください。

演習場の話は完全にガセですね。
空中写真については「日本地図センター」で購入できますが、
国土地理院の「国土変遷アーカイブ」でも閲覧できます。

国土地理院 地図・空中写真
http://www.gsi.go.jp/tizu-kutyu.html

  • 2010/08/19 (Thu) 21:53
  • REPLY
川端たぬき
城南坂伝説

> 子供の頃、宅地化が進む前は牛島小から城南坂あたりまで見通せていたのを思い出しました。懐かしいです。
> 冬の城南坂は本当に厳しかった。目の前で先生が滑って転んでしまいメガネを壊してしまったこと、憶えています。

現在の牛島小学校のあたりも一面の田圃でしたからね。
冬の城南坂にまつわる伝説は、「下校時はカバンをソリにして滑り降りる」とか、
市内の他校にも鳴り響いておりましたよ。
今は融雪道になっているんでしょうか。

  • 2010/08/19 (Thu) 22:06
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じょうなん83
城南中の写真

はじめまして、城南中OBとして懐かしく拝見させていただきましたが、旧校舎の写真、表裏逆になってるのかな~と感じるのは私だけでしょうか?

  • 2010/08/21 (Sat) 22:41
  • REPLY
川端たぬき
Re: 城南中の写真

> はじめまして、城南中OBとして懐かしく拝見させていただきましたが、旧校舎の写真、表裏逆になってるのかな~と感じるのは私だけでしょうか?

おっしゃる通り、ネガフイルムをスキャンする際に裏表を逆にセッティングしていました。
なんか違和感があったんですよね。
早速画像を差し替えました。御指摘に感謝!

  • 2010/08/21 (Sat) 23:08
  • REPLY
jouicic
虫取り

はじめまして 
山の中腹で住んでいました
七つ森に抜ける山道や沼辺りの杉林、山の真ん中辺りにアパートや花屋があり、その辺から鉄塔を越えて太平川まで降りてクワガタやセミなど捕まえて過ごしました。虫取りやソリ遊び、山の端から端まで良く遊びました。上の写真の何枚か、同じ風景の中で私も確かにいました、懐かしいです。ありがとです

  • 2013/09/21 (Sat) 04:01
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立志の像

はじめまして!
牛島小、城南中OBです(県外在住)。
底なし沼、城南坂かぁ…
なつかしいなぁ…
山瀬まみは1コ上の先輩です。応援団に所属してて、きれいだったから本当目立ってました。部活の先輩とつきあってたっけ。
ちなみに、NHKの番組「にっぽん縦断こころ旅(2014.07.02)」では、火野正平さんが金照寺山に登っていましたね。ノスタルジーに浸りながら見入ってしまいました。

  • 2014/12/18 (Thu) 20:43
  • REPLY
川端たぬき
Re: タイトルなし

> ちなみに、NHKの番組「にっぽん縦断こころ旅(2014.07.02)」では、火野正平さんが金照寺山に登っていましたね。ノスタルジーに浸りながら見入ってしまいました。

七ツ森周辺は遊ぶ子どもの姿も無く、すっかりさみしくなりました。

「にっぽん縦断こころ旅」については以下URLで記事にしています。

http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-1013.html

そのほか、金照寺山周辺や牛島商店街の記事もありますので、右側にある「ブログ内検索」にキーワードを入れてご覧ください。

  • 2014/12/20 (Sat) 10:33
  • REPLY