歴史的土蔵の小道・感恩講小路

川端たぬき

秋田市・歴史の小路(五)


2010.08 「新政酒造」土蔵と猿谷小路

川反六丁目から本町通りに抜ける、「新政酒造」の土蔵(旧・秋田感恩講土蔵)に沿って東西に湾曲した小道を「猿谷(さるや)小路」という。その名は川反側の北角(上掲画像右手)で、昭和四十年代頃まで質店を営んでいた旧家の名字にちなんだもの。


手前に猿谷質店、小路をはさんで秋田感恩講土蔵と「新政酒造」


2005.03 帯谷小路

「猿谷小路」の南側が「帯谷(おびや)小路」。この名も「帯谷鉄工所」を経営していた旧家の名字にちなんだもの。酒の仕込みの時期になると、あたりには麹の甘い香りが漂う。


2009.011 神田小路

「帯谷小路」を西に進み、大町六丁目の交差点を過ぎると、ここも同じく旧家にちなんだ「神田小路」。最近まで北側に「神田鉄工所」があった。突き当たりに「石敢當」あり。画像左手のバイクが停まっている年季の入った店は、知る人ぞ知る庶民的中華料理の名店。


●旧町名・小路名の魅力とその効用



「新政酒造」の界隈には古い小路名が多い。これらは町民が命名した非公式愛称だ。

秋田市内には「保戸野鉄砲町」と「鉄砲町」というふたつの、鉄砲にちなんだ旧町名がある。「鉄砲町」は鉄砲を製造する鉄砲鍛冶が住んでいたことに由来。「保戸野鉄砲町」は鉄砲で武装した「鉄砲組」の足軽が住んでいた町。

「十人衆町」については定かな記録がないので不明だが、熊野十二所権現に関連して、初期は「十二所町」と呼ばれていた「じゅうにしょ」が転訛して「じゅうにんしゅう」となったとも、藩に多額の御用金を納めた“十人の資産家”が住んでいたことに由来する、ともいわれている。この町に「銀映座」という映画館があった。

時代劇に登場しそうな粋な地名「四十間堀町」ならびに「四十間堀川反町」は、町内を堀(水路)が通っていたことに由来するが、これはまた稿を改めて考察したい。「舟大工町」については後述する。

細かく区分けされた旧町名や小路名が便利なのは、名前を聞いてすぐその場所が分かること。たとえばタクシーに行き先を告げるとき、「十人衆町」といえば一発で分かるが、現在使われている新町名においては、上掲略図の大半が「大町六丁目●番●号」となってしまい、まったくもって分かりづらい。さらに、縦軸で分割された旧地名の隙間を埋め、おぎなうように、小路名を横軸に配置して地理の万全を期しているのが素晴らしい。


●舟のひしめく旭川・湯船ひしめくソープ街

嘉永五年(1852)に「佐卯商店」(現・新政酒造)を創業した佐藤卯兵右衛はもともと米問屋だったという。この地域は県南から雄物川水運で旭川を下った穀物など、物資の荷揚場で、いにしえは米問屋、材木屋、薪炭問屋などが軒をつらねた町。


2004.03 「新政酒造」酒蔵

春になると岩見三内方面から大量の木炭や薪木が陸揚げされた。石炭・石油・ガスが燃料として使われる以前、町民が煮炊きや暖房、風呂焚きに使用した燃料は薪炭が占めていたのだから、その数は尋常ではない。先に挙げた「猿谷小路」の質店、「帯谷小路」の鉄工所も、元来は木炭と薪を取り扱う薪炭商であった。


明治三十一年『秋田市商工人名』より

木炭の産地であった岩見山内の野崎を起点とし雄物川を下る舟を「岩見舟」と称し、その終点である下新橋のたもとに置かれた舟乗りのための舟宿「岩見小屋」が昭和三十年代まで残っていたという。
‥‥前略‥‥
 春には、毎年のように河辺郡の岩見三内から、炭やマキを積んだ岩見舟というのがさかのぼってきた。ときには中島の女学校下の浜までのばり、マキなどをおろしたものだ。しかし大半は鍛冶町川反に荷揚げされ、小売り人の手に渡り、きたるべき冬の燃料としてさばかれたものだ。
 この人たちは下新橋のたもとにある岩見小屋という建物にたむろし、遊郭などで遊び、ふところを軽くしてから村へ帰るのを常とした。その建て物は"新政"の酒倉の下に今でも残っている。
‥‥後略‥‥
洞城利喜『あきたよもやま』昭和五十一年刊 より


2009.11 川反より下新橋を望む

有楽町通りの裏側にあたる、下新橋の向こう岸(東側)が「岩見小屋」の置かれた浜(河原)だが、河川改修のため浜は消滅、往時の面影はない。

雄物川水運の舟がひしめき、舟を造る職人が住んでいた、川反の旧舟大工(ふなだいく)町も、今では“舟”ならぬ“湯船”のあるソープランドがひしめく、秋田を代表する風俗街に変貌した。


●「感恩講小路」の復活を・・・

「新政酒造」北側の「猿谷小路」は「感恩講小路」とも呼ばれていた。小路に沿った土蔵は旧感恩講の倉庫であり、北側には感恩講事務所があった。そして「猿谷小路」で薪炭商ならびに質屋を営んでいた猿谷利左衛門は、高堂や本金らとともに明治二十七年から感恩講の役員に就任している。

那波祐生をはじめとする「秋田感恩講」の創設に関わった先人、維持のために協力した商人・町民たちの威徳と熱情に思いをはせ、後世に語りつぐ意味でも、旧感恩講の歴史的土蔵群が白壁を連ねる小道に、今改めて「感恩講小路」の名を復活させようではないか。


2005.02 感恩講小路(猿谷小路)


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Comments 6

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川反たぬきさん、今日は。 相変わらず楽しく拝見させていただいて居ります。

>質屋を営んでいた猿谷利左衛門は、高堂や本金らとともに
>明治二十七年から感恩講の役員に就任している。

上記文中の高堂さんは、もしや高堂酒造の高堂さんでしょうか。 もし差し支えがなければ、ご教示いただきたく存じます。

  • 2010/09/04 (Sat) 15:57
  • REPLY
川端たぬき
Re: 高堂家

> 上記文中の高堂さんは、もしや高堂酒造の高堂さんでしょうか。 
もし差し支えがなければ、ご教示いただきたく存じます。

高堂兵右衛門となっているので、今の川反一丁目の高堂酒店ですね。
高堂の本家はもともと越中富山の薬売りで、ひょんなことから秋田に定着して
大町二丁目のニューシティ向い側に大きな薬種小間物店を開いたそうで、
その初代が富山から弟を呼び寄せて開いた古着屋兼質屋で番頭を務めていたのが
初代の辻兵ということです。

  • 2010/09/04 (Sat) 21:38
  • REPLY

川反たぬきさん、ご丁寧な解説、有り難うございました。

  • 2010/09/05 (Sun) 13:56
  • REPLY
きょうと

はじめてコメントさせていただきます。川反たぬきさんのブログを楽しく拝見させていただいております。
私は秋田県出身で今埼玉の大学で建築の歴史を学んでいる者です。その中でも今秋田県の久保田城下町の町並みについての勉強をさせていただいております。

その中でも今、通町から川反通りにかけて調べているところです。秋田に帰って調査をしている際、高堂酒店を見つけて今でもこんなにきれいに残っている町家があるのを知って感動しました。
以前、高堂酒店についてもブログに掲載してされていたのを見て、質問があります。

ブログで書かれている内容は、実際に参考にしている史料があるのですしょうか?

素人な上、失礼な質問をして申し訳ありません。もし差し支えなければ、ご教示いただきたいと存じます。

  • 2010/09/06 (Mon) 17:15
  • REPLY
川端たぬき

> 以前、高堂酒店についてもブログに掲載してされていたのを見て、質問があります。
>
> ブログで書かれている内容は、実際に参考にしている史料があるのですしょうか?

メインにした文献は「秋田県の酒造史」について記述された書籍だったと思います。

高堂酒店は再開発前、現在より少し南寄りの十字路角地にあって、現在地に移すときリフォームしています。

通町と大町をふくむ外町の大半は、明治十九年の大火で焼け野が原になったので、残されている町家のほとんどがそれ以降の建築なのが残念ですね。

  • 2010/09/06 (Mon) 20:48
  • REPLY
きょうと

ご丁寧な解答、ありがとうございました。

本当に残念です。今残っている町家を後世にも残していけるようにしたいと思ってます。

  • 2010/09/07 (Tue) 13:14
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