「感恩講発祥之地」碑・花散る里

川端たぬき


「感恩講発祥之地」碑

大町六丁目「感恩講街区公園」に建つ「感恩講発祥之地」碑に埋め込まれた「秋田感恩講」の紋章は、香道の源氏香図の一つ「花散里(はなちるさと)」。さらに記念碑全体が「花散里」の形に配置されているのが面白い。


源氏香図

「源氏香」は五種の「香」を焚き、その種類を聴き(嗅ぎ)あてる、貴族の風雅な遊び。五本の縦線に対応して並べられた五種の「香」を聴き、その香りが同一と感じた縦線の頭を横線で結ぶ。「花散里」を例にすれば、左から一番目は単独の香り、二番と四番および三番と五番が同じ香りと判断したわけだ。「源氏香」のルールおよび「源氏香図」の詳細は、下記関連リンクを参照されたい。



「秋田感恩講」の「花散里」は佐竹藩主から下賜された拝領紋。佐竹氏の定紋(じょうもん)は、広げた扇の中央に月が描かれた「五本骨月丸扇」だが、替紋(かえもん)と称する非公式の家紋として使っていたのが風流な意匠の「花散里」であった。この非公式の家紋を裏紋・別紋・控紋ともいう。

秋田藩初代藩主・佐竹義宣公の香道好みは有名で、十種類の香の名を聴き当てて遊ぶ「十種香(じしゅこう)の宴」をたびたび催し、のちには藩の年中行事のひとつにしたほど。

文政十二年(1829)、貧民救済を目的とする民間主導の講社発足にあたって、藩は「感恩講」の名を与え、佐竹家の替紋である「花散里」を下賜。その行為は感恩講に対する佐竹氏の“認可”であり、感恩講は藩と一心同体の組織であることを示したのだろう。

もっとも、当時の藩の財政は火の車で、町民を救済する費用も外町の裕福な商人たちに頼らざるを得なかったわけで、ましてや那波家には、返済するあてもない代々にわたる巨額の借財を負っており、感恩講も藩が那波家に話を持ちかけたのをきっかけとして誕生したわけで、藩主と御用商人という立場を抜きにしていえば、佐竹家にとって那波家は最後まで頭の上がらない恩人であったわけだ。佐竹家の別荘「如斯亭」が最初は那波家に譲られたのも、このようないきさつをふまえてのことなのだろう。

「秋田感恩講」跡地に昭和五十一年、社会福祉法人「感恩講」が「感恩講発祥之地」碑を建立。題字は那波雲城の揮毫。洋画家の伊藤博次が設計を担当した。

那波別家の那波雲城は秋田県書道展審査員をつとめた県内書道界の重鎮。那波伊四郎商店(那波紙店)の木彫りの屋根看板を揮毫した人物。


伊藤博次『初冬(八郎潟)』1954 第39回二科展出品


伊藤博次『けいちつ』1997

洋画家・伊藤博次(1919~1999)。大正八年、老舗料亭「秋田倶楽部」を営む家に生まれる。昭和十六年、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)本科工芸図案科卒。「あきたくらぶ」「グリルアキタ」などグループ会社の専務、「アキタニューグランドホテル」の取締役を務めながら創作活動をつづけた異色の抽象画家。社長業のため途中から中央展への出品を断念。秋田美術作家協会、県造形美術家協会の設立に参画、昭和四十一年、「秋田美術学校」を開校し校長に就任するなど、県内美術界の発展と後進の育成に尽力した。

部分(花散里)と全体(花散里)が自己相似するユニークなデザインの「感恩講発祥之地」碑に、伊藤博次の機知に富む造形感覚の一端を垣間見ることができる。

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