名物「八橋とうがらし」と寿量院
●寿量院は徳川幕府のスパイ機関?

日吉八幡神社裏門
外町の総鎮守、八橋の山王さん(日吉(ひえ)八幡神社)の、羽州街道に面した裏門はもともと、神社南隣の台地にあった東照宮・寿量院(天台宗・寺禄二百石)の山門であった。
徳川幕府はその威光をあまねく知らしめすため、日光東照宮(徳川家康を神格化した東照大権現を祀る)を総本山とする分社を各地に配置。そのひとつであった秋田の東照宮・寿量院の前史をひもとくと、天和二年(1682)、三代藩主佐竹義処(よしずみ)が、天徳寺内に徳川将軍家代々の御霊(みたま)を祀る御霊屋を造営したことにはじまり、元禄年間の八橋帰命寺を経て、延享三年(1746)造営の寿量院に御霊屋を移す。
初代久保田藩主・佐竹義宣は、関ヶ原の戦いにおいて石田三成の西軍に内通したことが、徳川家康の怒りを買い、水戸から東北の片田舎・久保田に左遷されたあげく石高は半減、大家臣団を抱えて財政の困窮がつづく。そんな佐竹氏が徳川将軍家の位牌を祀る霊廟を造営した理由は、徳川家に二心無きことを証明すること、つまり服従を表明するため。内心は忸怩たるものがあったに違いないが、この時代、幕府に逆らうことは一族の滅亡を意味した。
上野の寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)もしくは日光東照宮から一年交替で派遣された寿量院の院主(住職)は、数十人の僧侶とともに徳川方に対する佐竹氏の感情と藩の動向を監視する探偵の役目を兼ねていたともいわれている。
幕末から維新の動乱期に入り、徳川幕府の息がかかった寿量院は急速に衰退し廃寺に。戊辰戦争では官軍の野戦病院として利用された後、かつては華麗な伽藍を誇った大寺院は明治四年に解体。その一部は同年に焼失した八橋菅原神社の再建に活用され、山門は北隣の日吉八幡神社に移設された。

日吉八幡神社裏門

菅原神社
大正十五年、寿量院跡地に秋田測候所(現・秋田地方気象台)が牛島町から移転。八橋球場を見下ろす気象台の高台は、プロ野球の試合があると無料外野席としてにぎわった。平成元年、秋田地方気象台は山王の合同庁舎に移転。

寿量院跡地
垣根の向こうが寿量院跡地。左手に八橋球場のスコアボードがみえる。
●名物「八橋とうがらし」は寿量院の置き土産?
日光から派遣された寿量院の僧侶がこの地にもたらしたと伝えられているのが、寺内村八橋の往年の名物「八橋とうがらし」。

書籍広告・大正七年
大正七年に名古屋で開催された「全国食料品博覧会」において一等賞を受賞した、八橋商会謹製の「八橋とうがらし」、商品名「とうがらし佃煮」。

漬物王国山形の辛いお漬もの【桂巻】いげたや庄司醸造株式会社
こちらは山形の老舗漬物屋が造る、ゴボウとトウガラシをシソの葉で巻いた味噌漬け「桂巻」。材料は「八橋とうがらし」と同じだが、塩漬けではない。同店では、きざんだトウガラシをシソで巻いた「しそ巻なんばん」も製造している。
そしてもうひとつ、青トウガラシをシソの葉で巻いた塩漬け、日光名物「志そ巻きとうがらし」。

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元祖 志そまきとうがらし 落合商店
日光修験者たちの耐寒食「志そまき とうがらし」【 Flavo! 】
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日吉八幡神社裏門
外町の総鎮守、八橋の山王さん(日吉(ひえ)八幡神社)の、羽州街道に面した裏門はもともと、神社南隣の台地にあった東照宮・寿量院(天台宗・寺禄二百石)の山門であった。
徳川幕府はその威光をあまねく知らしめすため、日光東照宮(徳川家康を神格化した東照大権現を祀る)を総本山とする分社を各地に配置。そのひとつであった秋田の東照宮・寿量院の前史をひもとくと、天和二年(1682)、三代藩主佐竹義処(よしずみ)が、天徳寺内に徳川将軍家代々の御霊(みたま)を祀る御霊屋を造営したことにはじまり、元禄年間の八橋帰命寺を経て、延享三年(1746)造営の寿量院に御霊屋を移す。
初代久保田藩主・佐竹義宣は、関ヶ原の戦いにおいて石田三成の西軍に内通したことが、徳川家康の怒りを買い、水戸から東北の片田舎・久保田に左遷されたあげく石高は半減、大家臣団を抱えて財政の困窮がつづく。そんな佐竹氏が徳川将軍家の位牌を祀る霊廟を造営した理由は、徳川家に二心無きことを証明すること、つまり服従を表明するため。内心は忸怩たるものがあったに違いないが、この時代、幕府に逆らうことは一族の滅亡を意味した。
上野の寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)もしくは日光東照宮から一年交替で派遣された寿量院の院主(住職)は、数十人の僧侶とともに徳川方に対する佐竹氏の感情と藩の動向を監視する探偵の役目を兼ねていたともいわれている。
幕末から維新の動乱期に入り、徳川幕府の息がかかった寿量院は急速に衰退し廃寺に。戊辰戦争では官軍の野戦病院として利用された後、かつては華麗な伽藍を誇った大寺院は明治四年に解体。その一部は同年に焼失した八橋菅原神社の再建に活用され、山門は北隣の日吉八幡神社に移設された。

日吉八幡神社裏門

菅原神社
大正十五年、寿量院跡地に秋田測候所(現・秋田地方気象台)が牛島町から移転。八橋球場を見下ろす気象台の高台は、プロ野球の試合があると無料外野席としてにぎわった。平成元年、秋田地方気象台は山王の合同庁舎に移転。

寿量院跡地
垣根の向こうが寿量院跡地。左手に八橋球場のスコアボードがみえる。
●名物「八橋とうがらし」は寿量院の置き土産?
日光から派遣された寿量院の僧侶がこの地にもたらしたと伝えられているのが、寺内村八橋の往年の名物「八橋とうがらし」。
名物「八橋唐辛子」と云うのは牛蒡の千切りにせるものを紫蘇の葉にて包み軽い塩味と蕃椒(※ばんしょう・唐辛子の異称、またはその粉)に依る辛みとを施せるもので、その昔寿量院の僧日光より持ち来たって植え之を作りその後連綿として続き現在に到るものである。八橋唐辛子製造は八橋部落の大半の家庭により行われているが、特に農家に多く秋の農繁期である稲上げが済むと女の手に依り牛蒡きざみやら紫蘇巻やらが行われ、樽漬けにされる。こうして約五十日が過ぎた十二月の末頃唐辛子は樽から取り出されて何本かゞ一把に結ばれ、商品となる。吹雪吹く師走の町をモンペに白ホーカブリそしてショイカゴ姿の女達に依って「トウガラシヤアーエ」と叫び売り歩かれる八橋唐辛子はやはり何と云っても本町での忘れられない名物である。然しこの行商も今では昔の如き主婦の正月前のホマツセンコカセギ(※泡沫銭コ稼ぎ)の小経営販売の域は脱して組合組織に変わり多量に遠地に売り出される様になった為、あまり見ることが出来ないのは残念である。稲刈りの終わった農閑期、八橋の大半の農家で栽培していたトウガラシを加工し、行商によって販売していた「八橋とうがらし」はやがて、組合組織の会社で大量生産されるようになる。昭和二十二年刊『寺内町史』より

書籍広告・大正七年
大正七年に名古屋で開催された「全国食料品博覧会」において一等賞を受賞した、八橋商会謹製の「八橋とうがらし」、商品名「とうがらし佃煮」。
八橋の名物は数多いが、その一つに“八橋のトウガラシ”ことシソ巻きがある。秋のとり入れの後の、農家のアルバイトであった。‥‥中略‥‥この記事が書かれた時点で、まだシソ巻の「八橋とうがらし」を製造する家があったというが、もしかしたら今も八橋地区では自家用に造る家があるのかもしれない。記事中に「男のほうは ああ、辛いはナンバの粉。 とトウガラシ粉を売る」とあるが、昭和四年の新聞記事に、それを売り歩いたと思われる「唐辛し爺ちゃ」を惜しむ記事がある。
ゴボウにシソを巻き、トウガラシをきかせた塩づけで、数本の細いワラで結ぶ。 からし、とンがらーし。 と女の人たちが市内で呼び売りした。男のほうは ああ、辛いはナンバの粉。 とトウガラシ粉を売る。カラシの伝来については、寿量院の日光僧がもたらしたという説がある。昭和三十九年『秋田魁新報』より
惜しまれる・・・はたしてシソ巻の「八橋とうがらし」はどんなものだったのか、ネットを検索するとそれに類似した商品がいくつかあった。
唐辛し爺ちゃ
市中をふれあるいた
あの声はもう聴けぬ
市外寺内村が出所であり名物の一つとして今以て賞美され又同村唯一の財源として売れ高も相当額に上っているものに例の唐辛しがあり今でも八十余歳の老翁が朝まだき市中をふれ歩いているので人これを呼んで「唐辛し爺ちゃ」とされるものに同村時治祖父井筒武助(八五)があってこれが抑もこの唐辛しの元祖と称されているのである然るに去る二十八日午前九時過ぎ八橋畷を通行中自動車にはね飛ばされ惨たらしくも死んだので今後同爺の姿を永久に見ることが出来なくなった訳である‥‥後略‥‥昭和四年『秋田魁新報』より

漬物王国山形の辛いお漬もの【桂巻】いげたや庄司醸造株式会社
こちらは山形の老舗漬物屋が造る、ゴボウとトウガラシをシソの葉で巻いた味噌漬け「桂巻」。材料は「八橋とうがらし」と同じだが、塩漬けではない。同店では、きざんだトウガラシをシソで巻いた「しそ巻なんばん」も製造している。
そしてもうひとつ、青トウガラシをシソの葉で巻いた塩漬け、日光名物「志そ巻きとうがらし」。

志そ巻きとうがらしは、日光修験が体を暖める耐寒食として愛用したことから起こったといわれ、日光東照宮造営以後は、日光詣りのお札にそえる「日光みやげ」にされたといわれています。このことにより、志そ巻きとうがらしは「日光とうがらし」ともいわれています。この「志そ巻きとうがらし」別名「日光とうがらし」こそ、日光修験の流れを汲む日光東照宮から派遣された、寿量院の僧侶が八橋にもたらした「八橋とうがらし」のルーツに違いない。
修験道は普通の仏教と違って、香辛料や薬味を嫌わないところがあります。とうがらしは16~17世紀に日本に渡来した香辛料ですが、羽黒修験でも「南蛮いぶし」というとうがらしの煙りでいぶす修行が行われています。
日光修験の強飯式(日光の輪王寺で行われる山盛りの飯を強要する神事)でも、山盛り飯で責めた後、『中禅寺の木辛皮、蓼ガ湖のたで、御花畑のとうがらし、寂光の大根……』の口上とともに、とうがらし、木辛皮(山椒の樹皮)、蓼、大根をのせた『菜膳』が出されています。◇ ◇ ◇
そんな修験道と共に三百年前から伝わるのが志そまきとうがらしです。当店は古くは輪王寺へ供物を納める店でもあり、江戸末期から明治初期頃から志そまきとうがらしの本格製造をはじめ、現在では日光で唯一の製造元となり、伝承三百年の志そまきとうがらしを中心に日光伝統のたまり漬など幅広く販売しております。
とうがらしは青色がベッコウ色になるまで塩漬けにして、特別な種類の紫蘇の葉を塩漬けにし、一本一本丁寧に手で巻いています。
このとうがらし1本のビタミンCはレモン10個分に相当するほどで、山にこもって修行する修験者たちの知恵ある食べ物でもありました。落合商店「当店と志そまきとうがらしの歴史」より
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